書棚より                                    2011/5/23

 比較的最近、わたくしの書棚に並ぶこととなった和書について、簡単にご紹介いたします。取り上げられる
のは、文献紹介のコーナーでは扱わないもので、とくにご紹介したい書籍、様々な方々から寄贈をいただい
た書籍が中心になります。また、わたくし自身の研究とは直接関わらない本や一般的な本も、ここで紹介す
る予定です。簡単なコメントをつけますので、ご覧ください。

<2011年5月>
・星川啓慈『宗教と〈他〉なるもの 言語とリアリティをめぐる考察』春秋社、2011年5月。
 長年、宗教哲学に英語圏の研究伝統を中心に取り組んでこられた著者による、本格的な研
究書が刊行された。星川氏の宗教哲学研究に関心のある方は(まだよく知らない方も)、これ
までの研究が一つのまとまりをもって提示されていることがわかるであろう。
 より詳細な紹介は、LogosOffice(ブログ)の方を参照ください。
  http://logosoffice.blog90.fc2.com/blog-entry-166.html

<2010年12月>
・氣多雅子 『西田幾多郎『善の研究』』晃洋書房、2010年。

 本書は、哲学書概説シリーズの一冊として出版された、西田幾多郎の名著 『善の研究』に
ついての概説書である。『善の研究』は刊行100周年をむかえたが、今日まで、日本哲学の古
典として読み継がれてきており、海外でも高い評価を受けている。本書は、こうした『善の研究』
に取り組みに当たって、また難解な西田哲学へアプローチするのに、まさに最適の書物と言え
る。西田哲学に関心のある方に、お進めしたい一書である。

・李光来 『西洋思想受容史 哲学的オーケストラの実現のために』御茶の水書房、2010年。
 
 本書は、韓国・国立江原大学哲学会教授の著者が、2003年に刊行された著書の邦訳で
ある。韓国の哲学的動向がまとまって紹介されることはまれであると思われるが、日本にお
けるのと同様に、韓国でも、西洋哲学の導入の歴史を経て、現在、ポストモダン的状況下で
新しい思想構築が試みられつつある(=哲学的オーケストラ)。日本の思想研究とも共有で
きる多くの問題が、本書で提供されており、興味深い。著者の李光来氏は、2010年12月18
日〜19日に京都大学文学研究科で開催された「西田幾多郎『善の研究』刊行100年周年記
念国際シンポジウム」で最後の特別講演を行った。そのときの司会者が、本書の翻訳者(高
坂史朗)であり、こうした文献レベルの紹介から、今後、様々なレベルでの思想交流が期待
される。

・出村彰 『ツヴィングリ 改革派協会の遺産と負債』(宗教改革論集2)新教出版社、2010年。

 本書は、昨年、カルヴァン生誕500年を期に、『カルヴァン 霊も魂も体も』(宗教改革論
集1)を刊行された著者が、続いてツヴィングリに関わる論考をまとめられた研究論集であ
る。長年、宗教改革研究をリードした著者ならではの充実した論集であり、今後の日本に
おける研究にとって意義あるものと言える(注も充実しており、専門研究にふさわしい)。内
容は、ツヴィングリの伝記的記述から始まり説教者ツヴィングリが論じられ(第一部)、続く
第二部では、ツヴィングリに始まる改革派教会の神学的伝統(コクツェーユス、バルト、シュ
ネーダーらにおける改革派教会の遺産。なお、シュネーダーは、著者が長年勤務してきた
東北学院大学の第二代院長)に関わる論文が収録されている。最後の第三部「徹底的宗
教改革」では、改革派教会とも様々な関わりがあるアナバプティズム(再洗礼派)と、宗教
的寛容をめぐってカルヴァンと対立するカステリョが扱われる。第二部が「遺産」であるのに
対して、第三部は「負債」に相当すると考えるべきであろうか。

<2010月10月>
・鈴木貞美『日本の文化ナショナリズム』平凡社新書、2005年。
 島薗 進『国家神道と日本人』岩波新書、2010年。

 これら二つの文献は、新書という形態ではあるものの、現代の思想状況で問われている、
日本・日本人を、根本から問い直す上で、重要な著書である。日本、愛国などの諸問題は、
東アジアの文脈で、また日本自体の内部で、ホットな論争テーマであるが、こうした問題に
ついては、歴史的事実の吟味と歴史的事実を解釈する理論的装置が必要になる。これらの
二つの著作を合わせて読むことによって、日本を、特に宗教的視点から本格的に問い直す
手掛かりが得られるものと思われる。

<2010年2月>
・佐藤貴史 『フランツ・ローゼンツヴァイク──〈新しい思考〉の誕生』知泉書館、2010年。

 本書は、著者が聖学院大学へ提出した博士学位論文に必要な修正などを加えて刊行さ
れた、専門研究書である。ローゼンツヴァイクは、『救済の星』の邦訳などにより、近年日
本でも以前よりも容易に近づきうるようになった思想家であるが、本書は、日本語で読める
貴重な研究成果であり、日本における今後のローゼンツヴァイク研究の基礎になるものと
言える。ワイマール時代のドイツを中心とした<新しい思想>動向を、とくに、ユダヤ教とキ
リスト教との関わりを視野に理解することは、現代思想をその源泉にさかのぼって理解す
る上で、基礎的な作業であるが、その焦点の一つがローゼンツヴァイクなのである。その
点で、本書の刊行の意義は大きい。今後の研究に期待したい。

<2009月12月>
・出村彰 『カルヴァン 霊も魂も体も』(宗教改革論集1)新教出版社、2009年。

 本書は、宗教改革研究をリードしてきた論者が、長年にわたって公にしてきた諸論考を
収録した論文集である。カルヴァン生誕500年を締めくくるにふさわしい充実した論集であ
り、近年の日本におけるカルヴァン研究の貴重な成果と言える。内容は、カルヴァンをめ
ぐる論考(霊性、聖書註解、論争)が中心であるのは当然であるが、ヤン・ラスキの教会形
成論や、熊野義孝の宗教改革論が収録されている点にも注目したい。

・亀喜 信 『ハナ・アレント 伝えることの人間学』世界思想社、2009年。
 
 本書は、著者が京都大学文学研究科に提出し博士学位を授与された博士論文に、修正
を加え、出版したものである。「伝える人間」という視点から、アレントの中心思想が明解に
論じられた好書であり、公共性や政治といったテーマはもちろん、教育、さらには宗教という
問題との関わりでも、教えられる点が少なくない。

・福谷 茂 『カント哲学試論』知泉書館、2009年。

 本書は、著者が京都大学に提出した博士学位論文を中心にしたものであり、20年にも及
ぶ研究が収録されている。本格的なカント研究書であり、最新のカント研究の成果である。
収録された諸論考の内容は、いずれもカント研究の重要テーマに関わるものであるが、と
くに、キリスト教思想との関連でいえば、「一 形而上学としてのカント哲学」「五 カントにお
ける自然神学の終焉とその意義」「十 カントの《Opus postumum》の哲学史的位置につい
て」「十三 カント哲学における神の問題」は、興味深い。

・手島勲矢 『ユダヤの聖書解釈 スピノザと歴史批判の転回』岩波書店、2009年。

 本書は、著者がこの10年あまりの間に公にした諸論考を収録した論集であるが、スピノ
ザ、聖書解釈・ユダヤ学をいうテーマを中心に緊密な関係づけられた構成となっている。本
書は、日本におけるユダヤ思想研究の貴重な成果であるが、キリスト教思想研究の観点
からも、近代聖書学の成立がいなかる意義をもっていたのか、といった根本問題を考える
上で、示唆的である。

・星川啓慈、松田真理子
 『統合失調症と宗教 医療心理学とウィトゲンシュタイン』創元社、2009年。

 本書は、ウィトゲンシュタインを中心に宗教哲学に取り組んできた研究者と、臨床心理学
を専門とする研究者の共著であり、対論の成果である。本書を貫くのは、「統合失調症」「宗
教」で先鋭化する「人間にとってリアリティとは何か」という問いであり、きわめて重いテーマ
である。また、本書は、「宗教と科学」という観点から読むことも可能であり、様々な観点から
宗教を問い直す手がかりとなるように思われる。

<2009年10月>
・棚次正和 『祈りの人間学 いきいきと生きる』世界思想社、2009年。
 
 本書は、「祈り」から人間(宗教を含めた)理解へ向かう思索を、「いきいきと生きる」と
視点から展開している。これは、後書き(「おわりに」)で、述べられているように、著者が
これまで、『宗教の根源──祈りの人間論序説』(世界思想社、1999年)と『人は何のた
めに「祈る」のか──生命の遺伝子はその声を聴いている』(村上和雄共著、祥伝社、
2008年)として公にしてきた「祈り」をテーマとした論考に連なるものであり、祈りと人間
をめぐる諸問題について考える上で、多くの示唆を受けることができる。「いきいきと生き
る」ことが問われつつも困難な時代にあって、読者は、宗教の意味を「祈り」という宗教に
密接に関わる事柄から問い直すように促されるであろう。「祈り」は実に奥の深い問題で
ある。

<2009年8月>
・久松英二 『祈りの心身技法 十四世紀ビザンツのアトス静寂主義』京都大学出版会、
        2009年。

 本書は、日本においてはこれまで十分な研究がなされてことなかった、東方神秘主義
思想についての本格的な研究書である。神秘主義(とくにその心身技法)が、個別的な
宗教的伝統にたちつつも、それを超える共通性を有することまで扱われており(補遺)、
宗教研究という観点からも重要な研究と言える。

・C.マクスシース 『グノーシス』(土井健司訳)教文館、2009年。

 本書は、現代ドイツにおける古代キリスト教研究をリードするマルクシースによる、「グノ
ーシス」についての解説書である。「グノーシス」については、日本においても、これまで多
くの議論がなされてきたが、その議論の射程は、「近代における社会の世俗化の増大とい
う主張は、今一度根本的に再検討されなければならないことになるであろう」といわれるよ
うに現代に及んでいる。

<2009年1月>
・榎十四郎 
 『続 禅とは何か』
 
はたもと印刷 2008年12月

 本書は、著者が、3年前に出版した『禅とは何か』の続編であり、その後の思索がま
とめられたものである。著者はこれまでキリスト教を中心に、禅仏教までおよぶ、広範な
諸問題に、自分自身の問題意識において丹念に取り組んできた(通常の意味での研究
書ではないが、高度に学問的である)。著者は思索のあり得る可能性について、一つの
形を提示したと言えよう。

・海津忠雄・東方敬信・茂牧人・深井智朗
  『思想力 絵画から読み解くキリスト教』キリスト新聞社、2008年12月

 本書は、「あとがき」で説明されているように、2007年7月15日と16日に青山学院大学
で行われた、「青山『書く』院大学」での4人の講演をもとに、書き下ろされた論集である。
キリスト教が西洋文化の基盤として存在しており、西洋を理解する上で、キリスト教は不
可欠の前提であることは、広く認知された事柄であるが、本書では、西欧の絵画(芸術)と
キリスト教との関わりを、論者それぞれの視点から切り取り、興味深い議論へと仕上げて
いる。レンブラントをあつかった海津氏以外は、美術史の専門家ではなく、それぞれ、キリ
スト教神学や宗教哲学を専門とする研究者であるが、むしろそれだけに、文化とキリスト
教という問題に関心のある読者には、新鮮な知的刺激を与えてくれるものと思われる。

<2008年10月>
・Eiko Hanaoka
 Zen and Christianity. From the Standpoint of Absolute Nathingness
 Marzen Kyoto Publication Service Center 2008.

 本書は、著者がこれまで海外で行ってきた研究発表や講演を収録した論文集であり、
全体として、禅仏教とキリスト教との関わりをめぐって展開されている。著者の個人的な
背景にも言及された序からはじまり、第一部では禅、第二部では京都学派の哲学が論
じられ、最後の第三部で禅とキリスト教という中で、自覚、自己から科学技術まで広範な
議論が展開される。仏教とキリスト教との関わりに関心のある日本人はもちろん、とくに、
こうした問題に正面から取り組もうとする留学生には、一読いただきたい書物である。

<2007年8月>
・古屋安雄
 『神の国とキリスト教』
 教文館 2007年8月

 本書は、これまでキリスト教思想や日本キリスト教の諸問題について、多くの鋭い
分析と指摘を公にしてきた著者が近年集中的に取り組んできた「神の国」というテー
マをめぐる論文集である。その内容は、19世紀以降の神学思想(リッチュル、社会
福音/バルトらの弁証法神学)における「神の国」をめぐる扱い方の変化(バルトら
による周辺的な扱い)を詳細に論じた、第一、二、三章と、「神の国」という観点から
日本のキリスト教思想の分析に行った、第三、四、五、そして全体のまとめと言える
第六章から、構成されている。いずれにおいても、著者ならではの鋭い分析がなさ
れているが、日本において「神の国」が十分に語られてこなかったことから、日本キ
リスト教の根本的な問題性(軍国主義との妥協、教団問題、東神大紛争などを規定
する)が指摘されるなど、今後日本のキリスト教思想のあり方を考える上で参照すべ
き多くの議論がなされている。また、、トレルチやパネンベルクらについての議論も
興味深い。

<2007年3月>
・藤田正勝
 『西田幾多郎−生きることと哲学』
 岩波新書 2007年3月

 本書は、現在、京都大学大学院文学研究科日本哲学研究室の教授として活躍中
の著者によって、西田哲学への「道しるべ」として書かれた。難解な西田の文章と思
想を、西田の生きた時代あるいは西田自身の人生にも言及ししつつ、根本的なとこ
ろからしかも平易に解きほぐすように説明がなされており、読者は本書を手掛かりに、
西田の思索を辿りつつ、自らの思索を進めることができるものと思われる。文献案内
や略年譜も充実している。また、西田哲学の現代における可能性に関心のある方は、
終章「西田哲学の位置と可能性」をご覧いただきたい。(2007/3/26)

・芝田豊彦
 『ドイツにおける神秘的・敬虔的思想の諸相−神学的・言語的考察−』
 関西大学出版部 2007年3月

 本書は、筆者が関西大学大学院文学研究科に提出した博士学位論文に加筆・修
正を加えたものである。書名からわかるように、本書では、タウラー、ゾイゼ、ルター
から、アルノルト、フィラデルフィア運動を経て、エーティンガー、ヘルダーリンに至る、
ドイツの中世から近代にかけての神秘思想と敬虔主義の展開が一次テキストに即
して丹念に論じられている。ドイツ神秘主義については、我が国でも優れた先行研究
が存在するものの、敬虔主義にまだ踏み込んだ研究は、本書以外、それほど多くは
ない。その意味で、本書はキリスト教思想史研究における重要な研究成果と言えよ
う。本書の方法論的特徴としては、副題の「言語的考察」が示すように、ルターの
KlarheitやヘルダーリンのGeistなどの鍵になる用語の用法分析から思想へのアプロ
ーチを挙げることが可能であり、また、中世から近代のドイツ精神史の範囲を超えて
日本の宗教思想(道元、一遍)との比較や現代神学(バルト、滝沢)との関わりを論じ
るという点に、本書の独自の視点を見ることができる。          (2007/3/20)

・小森陽一
 『ことばの力 平和の力 近代日本文学と日本国憲法』 かもがわ出版 2006年10月

 本書は、夏目漱石や宮沢賢治などの日本近代文学の研究者として、また「九条の
会」事務局長として活躍の著者の、これら二つの仕事のいわば接点をなす著作であ
る。一見すると、文学研究と政治という異質な二つの活動が、なぜ一つに結びつくの
かという点を、本書は明解に示している。文学も政治も、人間のことばの問題である
ということであり、それを樋口一葉(日清戦争)、夏目漱石(日露戦争)、宮沢賢治
(第一世界大戦)、大江健三郎(9・11、そして現代)についての文学研究者ならでは
の鋭いテキスト読解(深読み?)に基づく分析を通して論じている。読者は、日本の文
学者が、近代日本とその戦争に対する透徹した視点から作品を生み出している点に
十分納得することができるであろう。宗教研究の観点からも、宮沢賢治『烏の北斗七
星』における「マヂエル様」(烏の神様)が「戦争における殺戮を肯定し、促す神になっ
てしまっています」といった分析は、興味深い。これは、基軸時代以降の宗教の持つ
影の部分の分析に関わっているように思われる。また、〈正義の戦争〉はあるのか、
との問いは、まさに現代において思想的課題と言わねばならない。  (2007/3/9)

・小川圭治
 『神をめぐる対話 新しい神概念を求めて』 新教出版社 2006年1月

 本書は、バルト研究、キルケゴール研究で著名な著者がこの20年あまりの間に取
り組んできた研究の集大成とも言える論文集である──『主体と超越』(創文社、19
74年)以降の諸論考──。18の論文が収録されているが、それぞれが執筆された
事情などについては、各章の冒頭に説明が付されており、議論の背景などについて
知ることができる。内容はバルトを始め、現代ドイツの神学者についての論考が中心
であるが、宗教的多元性やアジア的状況の問題、あるいは西田哲学など、広範な問
題領域に及んでいる。この20年の間、キリスト教思想研究を取り巻く状況、あるいは
問題意識や視点については大きな変動が見られるが、その中で、現代神学、とくに
神の問題を再度本格的に問い直す上で、本書は大きな手がかりになるであろう。
                                            (2007/3/7)

<2007年1月>
・秦 剛平
 『乗っ取られた聖書』 京都大学学術出版会 2006年12月

 本書は、ヨセフス、フィロン、エウセビオスなどの古代のユダヤ教・キリスト教思想家
の著作や70人訳聖書という膨大な文献群の翻訳、またバートン・マックやクロッサン
などの英語圏の聖書学研究文献の翻訳と紹介、などによって、著名な著者による、
「聖書の歴史の裏街道に横たわる「複雑の森」」への「道案内」として書かれた書物で
ある。読者は、著者の博識と達意の文章を通して、古代の聖書という書物への新しい
アプローチに触れ、多くの点で触発されるものと思われる。とくに、第4章「こうも違う
──ギリシャ語訳とヘブル語テクスト──」あるいは第7章「ギリシャ語訳を乗っ取られ」
から、古代のユダヤ教とキリスト教との関わりを考える上での基礎となる問題が扱わ
れている。我が国でも、昨年来の「ダヴィンチ・コード」ブーム(?)と前後して、古代キ
リスト教・聖書成立の「謎解き物」の出版が続いているが、学問的に怪しげな類書の
中で、本書は信頼できる一冊と言える。

<2006年8月>
・小西豊治
 『憲法「押しつけ」論の幻』 講談社現代新書 2006年7月

 改憲論議が高まる中、しばしば、改憲の根拠として、戦後憲法がアメリカの押しつけ
であるという議論がなされている。この種の議論によくありがちなことは、十分な歴史
的根拠なしに(あるいは根拠の検討なしに)、一般的なイメージや俗説に基づいた主張
を受け売り的に行うことである。憲法「押しつけ」論はその典型であり、その根拠の薄弱
さを明らかにした点で、本書は憲法問題をまじめに考える者にとって重要な内容と言え
る。「国民主権」や「象徴天皇制」が、アメリカの単なる押しつけではなく、むしろ、憲法
研究会案に起源を持つものであり、それは、鈴木安蔵の自由民権運動研究から、吉野
作造の民本主義、そして植木枝盛の「日本国憲法」(草稿本)にまで遡る、近代日本に
おける民主主義の伝統の立つものであることが、明確に示されている。

・月本昭男
 『詩篇の思想と信仰U 第26篇から第50篇まで』 新教出版社 2006年6月

 本書は、『福音と世界』(新教出版社)に連載中の詩篇注解をもとに上程された詩篇
注解書(第二巻目)である(書評者は、『福音と世界』の連載を毎月楽しみにしている)。
日本を代表する旧約聖書学者の注解書であるだけに、適確かつ信頼に値する注解書
であり、今回の第二巻についても、書評者自身の研究と関わりでも、参考になる点が
少なくない。たとえば、第33篇「ヤハウェの言葉によって天は造られ」では、「本詩6-9節
は、「ヤハウェの言葉」への信仰(詩五六5、11参照)に基づき、創世記冒頭の天地創造
物語を「言葉による創造」として解釈した最初のテキストであったといってよい」(112頁)は、
キリスト教自然神学の旧約的背景を考える上で、重要な指摘である。

・松木真一編
 『キェルケゴールとキリスト教神学の展望 <人間が壊れる>時代の中で』
 (キェルケゴール没後150年記念論文集) 日本キェルケゴール研究センター
 関西学院大学出版会 2006年3月

 本書は、編集者が序文で説明しているように、関西学院大学神学部教授として、日本の
キェルケゴール研究をリードしてきた、橋本淳博士の関西学院大学退職を記念した献呈論
文集であり(最後に、橋本博士自身の「遙かなるデンマーク──キェルケゴールの国」が
収録されている)、同時にキェルケゴール没後150年記念論文集として企画されたものであ
る。内外のキェルケゴール研究者による専門論文が収録されているのはもちろんのこと、本
書の特徴は、キェルケゴールの思想的意義をキリスト教思想、とくに現代の時代状況におい
て捉えようとする点に認められる。パウル、ルター、ティリッヒ、モルトマンについての諸論文
が収められているのは、この理由からである。

<2006年4月>
・小林道夫
 『デカルト入門』 ちくま新書 2006年4月

 本書は、現代のデカルト研究の第一人者による、一般の読者向けの入門書である。
当然入門書であることから、本書にはデカルト哲学の主要問題の解説のみならず、デ
カルトの生涯とそのエピソードが盛り込まれている。しかし、入門書としてデカルトの魅
力がわかりやすい解説されているだけでなく、 デカルト哲学と心の哲学、科学哲学、
環境論といった現代の問題状況との関わりに踏み込んだ議論が展開されており、きわ
めて啓発的である。本書の紹介者にとって、とくに興味深かったのは、神の存在証明を
含む一連の形而上学的思想の部分である。

・鈴木範久
 『聖書の日本語』 岩波書店 2006年2月

 本書は、日本キリスト教史研究(とくに聖書の日本語訳の問題など)で著名な著者が、
聖書、日本語訳、日本語・日本文化という問題連関を扱った書物である。まず、キリシ
タンから、中国訳聖書、明治以来の新共同訳にいたる聖書翻訳の歴史が証紙に辿ら
れる。その上で、第7章では、「日本語と聖書語」との関わりが論じられ、明治以降の
日本語自体の変遷における聖書語の影響、とくに日本文化にとっての聖書の意義(「
付章 聖書と日本人」も重要)が説明される。こうした議論は、近代日本によってキリスト
教が実際にどんな関係を有していたのかについて考える上で示唆的であり、とくに日本
文学を理解する際の聖書の意義を考える上で重要である。「むすび」で示された、聖書
という点から見て、日本のキリスト教が中国経由という面をもつとの考えは、興味深い
(第3章の「1」の議論と合わせて読むときにとくにこの点は重要になる)。

<2006年3月>
・川島堅二
 『F・シュライアマハーにおける弁証法的思考の形成』本の風出版 2005年5月

 本書は、日本におけるシュライアマハー研究者として、すでに高い評価を受けてき
ている、川島氏が、東京大学大学院文学研究科(宗教学)に提出し受理された氏の
博士論文である。これまで、日本においては、最近の欧米でのシュライアマハーに
対する広範な研究的関心の高まりにもかかわらず、十分にレベルに達するシュライア
マハー研究は決して多くなく、また取り上げられるのは、もっぱら『宗教論』『信仰論』
に限られてきたように思われる。その点で、本書は日本における従来の研究レベルを
突破する画期的な研究と評価できるであろう。後期(体系期)におけるシュライアマハ
ーの哲学の基礎といえる「弁証法」講義とそこに展開された弁証法的思考について、
最近の研究を踏まえた本格的な議論がなされていること、しかも『宗教論』『独白録』
(前期:直観期)から、この弁証法的思考の形成に至るプロセスを、批判期として取り
出し、その時期における同時代の思想家たちとの関わりを緻密な仕方でたどっている
こと、これらは、今後のシュライアマハー研究によって重要な基盤を提示したものと言
えるであろう。 

<2006年2月>
・野呂芳男
 『ジョン・ウェスレー』松鶴亭(出版部) 2005年8月

 本書は、現代神学研究者(実存論的神学)あるいはウェスレー研究者として著名な
野呂氏による4冊目のウェスレー研究書である。内容は、ウェスレーの生涯を扱った
第一章からはじまり、ウェスレーの神学の諸テーマ(神学的認識論、人間論、キリスト
論、義認と聖化、キリスト者の完全性、聖霊論)を順次取り扱い、現代のウェスレー研
究と批判的対論を行い(第九章)、そして今後のウェスレー研究を展望すること(第十章)
によって結ばれている。「はじめに」は、「本書でウェスレーを研究しようとされる方々に」
という言葉から書き出されているが、本書は、まさに今後のウェスレー研究にとって重
要な基礎となり得る研究書と言えよう。「生涯」におけるアングリカン教会との関わりの
論述、またウェスレー神学の特徴といえる「聖化」「キリスト者の完全性」「聖霊の確証」
などの解釈、学ぶべき点は多々あるように思われる。なお、より詳細な内容紹介は、
「野呂芳男ホームページ」内の林昌子氏の紹介を参照いただきたい。

・稲村秀一
 『キルケゴールの人間学』 番紅花社(さふらんしゃ) 2005年11月

 本書は、ブーバー研究(とくに、ブーバー思想への人間学的なアプローチ)で知られる
著者による、キルケゴールについての専門研究書である。初出一覧からわかるように、
本書は稲村氏が1980年代から90年代にかけて行ったキルケゴール研究の成果であり、
キルケゴールの人間学の諸問題(人間学的三区分論、自己の構造、実存生成、同時
性・躓き・逆説、単独者、罪など)が詳細に論じられている。注を中心にキルケゴールの
テキスト(ヒルシュ訳のドイツ語版)から多くの引用がなされることによって、キルケゴール
の実際のテキスト内容を確認しつつ、議論をたどることが可能になっており、読者は、キ
ルケゴールの思想を具体的に確かめながら安心して氏のキルケゴール論を読み進める
ことができるであろう。最終章(第三部第三章)におけるキルケゴール(単独者)とブー
バー(対話的実存)との関わりについての議論は興味深い。

<2006年1月>
・文京洙
 『韓国現代史』 岩波新書 2005年12月

 本書は、表題の示すとおり、韓国現代史(第二次世界大戦後)をトータルに叙述もの
であるが、日本人に隣国韓国の歩んだ苦難の道のりを伝えたいとの意図で書かれた。
実際、軍事政権から民主化、そして最近の盧武鉉政権に至る叙述は、ほぼ同時代を
生きてきた読者にとっては、共感をもって読むことができるであろう。本書の叙述の特
徴として注目したいのは、これまで「上から」「中心から」のみ語られがちであった韓国
現代史を、「周縁から」から叙述するという視点である。それは、済州島四・三事件や
光州事件の扱い方に現れている。光州事件が何であったのか、という点からだけでも、
本書は一読に値するように思われる。

<2005年12月>
・花岡永子
 『「自己と世界」の問題−絶対無の視点から−』 現代図書 2005年11月

 本書は、これまで宗教哲学の分野で思索を深めてきた著者が、自らのライフワーク
とも言える「自己と世界」という問題を、絶対無、つまり西田哲学という統一的視点から
論じたものである。著者は、このテーマを展開するにあたり、西田哲学はもちろんのこ
ととして、キェルケゴール、西谷啓治、ハイデッガー、ブーバー、ホワイトヘッド、ティリッヒ
という思想家を次々と縦横に取り上げつつ、自らの思索の展開を試みている。また、付
録として収録された「わが心の遍歴」は、著者が以上ような広範かつ深遠な思索の道を
たどった経緯が、著者の人生における様々な人々との出会いとして描かれている。

<2005年10月>
・菊地榮三・菊地伸二 
 『キリスト教史』 教文館 2005年10月

  本書は、キリスト教思想史研究において、活躍されている二人の著者による、キリス
ト教の通史である。しかし、本書は単に時代順に項目を並べるのではなく、序文におい
て示されているように、「キリスト教の本質」(イエス・キリストの愛の言行=福音)が「教会
を通して、どのように実現しつつあるのか」という視点から、「教会のいわゆる存在理由」
を検証するという意図において叙述されている。しかも、西欧中心のキリスト教史に対し
て、東方諸教会、日本やアジア、アフリカ、中南米といった諸地域の動向にも目配りを行っ
ている点で、従来のキリスト教史の叙述を超える試みも伺える。この点は、「結び−二十一
世紀の課題」で、「他宗教との本格的な対話を」として述べられている内容、とくに、最後の
「確かに、他宗教との対話に際しても、寛容なき自己の信仰の主張は、傲慢な排他主義
に、また自己の確固たる信仰なき寛容は無責任な多元主義に陥るのではあるまいか。」
という言葉にも示されていると言えよう。

<2005年9月>
・長谷正當 
 『心に映る無限 空のイマージュ化』 法蔵館 2005年9月

 本書は、現代フランス宗教哲学について長年深い思索を展開してきた著者が、1994年
から2004年までの最近の十年間に書かれた諸論考を収めた論文集である。デカルト、
ラヴェッソン、ベルクソン、シモーヌ・ヴェーユ、レヴィナスの諸論を縦横に論じ、構想力、
イマージュ、表現といった事柄から宗教の根源へと迫るという手法は、著者のもっとも得
意とする点であるが、本書では、それがさらに仏教思想や西田、西谷、武内といった京都
学派の思想の問題領域へと広げられることによって、現代における宗教哲学の一つの方
向性が示されたと言えよう。

<2005年6月>
・ハンス・G.キュペンベルク (月本明男、渡辺学、久保田浩訳)
 『宗教史の発見 宗教学と近代』 岩波書店 2005年5月

 本書は、ドイツの宗教学者キュペンベルクが、「宗教史」という視点から現代宗教学の
成立過程を包括的に論じた著書の邦訳であり、宗教学とは近代の思想文脈で何であっ
たのか、を知る上で、貴重な文献である。近年、宗教学に関連する諸分野では、その成
立過程を遡り、その学問的基礎と可能性を再検討する動きが顕著であるが、本書はこう
した宗教学の歴史的反省という点からも興味深い。とくに、その焦点として、「宗教史」を
取り上げたことは、現代宗教学の基本的方法という意味で、宗教哲学や神学との関わり
を論じる上で、卓見といえよう。

・藤田正勝、ブレッド・デービス編
 『世界のなかの日本の哲学』 昭和堂 2005年6月
 
 本書は、現在、世界の広範な地域と分野で進展しつつある「日本の哲学」をめぐる研究
状況を受けて、またそこに現れた日本の哲学への期待に応えることをも目指しつつ、編集
された論文集である。執筆者は、日本の哲学を論じるにふさわしい、しかも多彩な顔ぶれ
であり、日本の哲学(とくに、京都学派を中心に)の豊かな可能性が、アジアの諸思想や
欧米の諸思想との関わりから説得的に論じられている。創造的な思想形成の場として、
対話がもつ重要な役割について、改めて考えさせられる論集である。
 
<2005年4月>
・土井健司 『愛と意志と生成の神 オリゲネスにおける「生成の論理」と「存在の論理」』 
        教文館 2005年4月
 本書は、著者土井氏が、今年の2月に関西学院大学へ提出し神学博士の学位を授与
された学位論文に若干の修正を加えて出版されたものである。著者は、すでに『神認識
とエペクタシス』(創文社、京都大学博士(文学)の学位論文)などによってその実力を知
られたキリスト教古代の思想研究(教父学)の専門家であり、今回出版された著書も、高
度な連門研究の成果である。しかし、氏の関心はキリスト教古代を代表する思想家オリ
ゲネスの思想の厳密な解釈・理解にとどまらず、キリスト教思想自体を貫く「生成の論理」
と「存在の論理」という二つの論理の定式化へと向けられており、その議論は、キリスト教
思想について様々な視点から関心をもっている多くの研究者にとって示唆に富んだもの
と言えよう。

・中才敏郎編 『ヒューム読本』 法政大学出版局  2005年4月
 本書は、法政大学出版局より刊行されている「読本シリーズ」の一冊として出版された
ものであり、ヒューム研究の多岐にわたるテーマが適確に紹介されている。とくに、宗教
哲学という観点からいえば、英語圏の宗教哲学において、ヒュームは最重要の思想家の
一人であり、教科書的な著作では必ずかなりのページを割いて取り上げられている(日
本における宗教哲学とはやや事情が異なっている)。本書の「ヒュームにおける宗教と哲
学」の章は、ヒュームの宗教哲学における重要な諸問題が論じられており、宗教哲学に本
格的に取り組む上で、参照すべき内容となっている。また、本書の最後に付された「研究
案内・年譜」も有益である。

<2005年3月>
・榎十四郎 『禅とは何か』 2005年2月
 本書は、これまで、キリスト教に関して、『旧約と新約の矛盾』(ヨルダン社 1993年)、
『体制宗教としてのキリスト教』(社会評論社 1997年)、『キリスト教は自然科学でどう変
わるか』(社会評論社 2000年)、『イエスと世俗社会』(社会評論社、2001年)という著書
を通して独自の思索を展開してきた著者の最新書である。著者は、プロテスタントの立場
から禅仏教の教理に向き合おうとしているが、基本にあるのは、宗教における原理面と社
会面との区別、非社会性と社会性の対照である。

・内山勝利・中畑正志編 『イリソスのほとり 藤澤令夫先生献呈論文集』 
       世界思想社 2005年3月
 本書は、2004年にご逝去された故藤澤令夫先生への献呈論文集として、先生の薫陶を受
けた弟子たちによって企画された本格的な研究論文集である。論文執筆者はいずれも、現
在日本における古代ギリシャ哲学研究で活躍中の研究者であり、藤澤門下の水準の高さを
見事に示していると言えよう。論文集の中心は、プラトンであり、第一部第二部では、初期か
ら後期にいたるプラトン哲学が扱われ、第三部では、プラトン哲学の方法論の中心に位置する
「ロゴス性と対話性」が論じられている。そして、最終の第四部では、プラトンの立つ哲学的思
索の伝統が、プラトン以前以後という仕方で(パルメニデス、アリストテレス、プロティノス)、議
論されている。読者は、本書よりプラトンの豊かな思想世界を触れることができるであろう。な
お、タイトルの「イソリスのほとり」の意味については、編者による「あとがき」をご覧いただきた
い。

・棚次正和・山中弘編 『宗教学入門』 ミネルヴァ書房 2005年3月
 本書は、宗教学の入門書(教科書)として企画されたものであり、世界の諸宗教の概観、
宗教研究の方法、宗教現象の主要事項、文献紹介などが、それぞれの専門研究者の立場
からバランスよく取り扱われている。とくに基本文献表の解説は丁寧であり、初学者にとって
参考になるであろう。

『岩波 応用倫理学講義 3情報』 岩波書店 2005年3月
 本書は、現代の応用倫理学の中心問題を扱った叢書の第3巻であり、そのテーマは情報
である(情報倫理)。この叢書自体、応用倫理学の現状を把握するのに様々な工夫がこらさ
れているが、この第3巻においても、情報をめぐる倫理的問いの現状を多角的に描き出す
仕掛けが施されている。まず、「講義の七日間」(水谷雅彦)から全体像を把握し、次に関心
に従って、セミナーの諸論に進むことによって、情報とはいかなる問題なのかが明らかにな
るであろう。最後に掲載の、情報問題年表も楽しく眺めることができる。

・森田雄三郎 『現代神学はどこへ行くか』 教文館 2005年3月
 本書は、1960年代以降日本の現代神学をリードし、2000年に永眠された森田雄三郎氏の
遺稿論集である。現代神学のマクロな動向を概観した第一部、現代神学の基礎論的問題を
論じた第二部、そしてユダヤ教研究(カバラ研究)を含む第三部、三つの解題からなる第四
部、これら全体から森田氏の思索の広がりと中心的関心を知ることができる。混沌とした状況
にある現代神学に中で、確かな思索の手がかりを得る上でも、本書はよき手引きとなるであ
ろう。

・稲村秀一 『マルティン・ブーバー研究 −教育論・共同体論・宗教論−』 
        溪水社 2004年12月 
 本書は、ブーバー研究者として知られる稲村氏が、最近10年の間に発表してきた論文をまと
めて出版された著書である。前著『ブーバーの人間学』(教文館 1987年)が、ブーバーの思想
全体を人間学として解釈することをめざしたのに対して、この論文集は、いわば人間学の各論へ
の展開というべきものであり、教育論、共同体論、宗教論から構成されている。とくに、第三章
「現代の精神状況における「神の蝕」」と第四章「宗教的実存の二形態」は、ブーバーの宗教論
でもとくに重要な問題を扱っており、興味深い。第四章の「二形態」とは、ブーバーが、ユダヤ教
とキリスト教とを信仰の二つのあり方(エムーナとピスティス)として類型化して比較したものであ
るが、ユダヤ教とキリスト教との比較論として示唆に富んでいる。

<2005年2月>
・ペーター・シュトゥールマッハー 『ナザレのイエスと信仰のキリスト』 
 新教出版社 2005年2月
 本書は、「聖書神学」(旧約聖書神学と新約聖書神学とを統一する)の提唱などで著名なシュ
トゥールマッハーの1988年の著作の翻訳である。タイトルにある「ナザレのイエス」と「信仰のキ
リスト」との関係性という問題は、19世紀から引き継いで現代に至る聖書学の基本問題であり、
シュトゥーマッハーはシュラッターへの回帰という仕方で(この著書がドイツで刊行された1988年
は、シュラッターの没後50年にあたる)、つまり、イエスに対する信仰告白をイエス自身のメシア
意識に基礎づけるという仕方で、この問題に答えようとしている。詳細は、翻訳者による批判的
解説をご覧いただくこととして、史的イエスという問題に関心のある方は一読してはいかがだろう
か。

<2004年11月>
・筒井賢治 『グノーシス 古代キリスト教の<異端思想>』 講談社メチエ 2004年10月
 Kenji Tsutsui, Die Auseinandersetzung mit den Markioniten im Adamantios-Dialog.
    Ein Kommentar zu den Buechern I-II
, de Gruyter  2004
 これら二つの著作は、同一の著者(筒井賢治氏)によって、本年刊行された古代キリスト教をテ
ーマとしたものであるが、前者は、日本の一般の読者を念頭に置いた入門書であるのに対して、
後者は、博士学位論文というきわめて専門性の高い論考である。これら二つの著作から伺われる
のは、著者が専門研究者として有する力量であり、おそらく、今後著者が日本の古代キリスト教研
究をリードする一人になることは疑い得ないであろう。現在、日本の古代キリスト教研究では40代
前後の研究者の活躍が顕著であるが、筒井氏の今後に期待したい。

・『岩波講座・宗教10 宗教のゆくえ』岩波書店 2004年10月
 本書は『岩波講座・宗教』の最終巻であり、これで1年近くにわたって順次刊行されてきた本講座
も完了したことになる。本講座は全体として、現在の日本における宗教研究の水準を示すものであり、
各巻共に興味深い論考を多く収録している。研究者あるいは研究を志す者にとって、良き案内役とな
るであろう。とくに、第二部「科学との対話」に所収の、西平直、清水哲男、岩田文昭諸氏の諸論は、
「心・魂・霊・医療・死」という問題群を扱った力作と言えよう。

<2004年10月>
・内山勝利 『対話という思想 プラトンの方法叙説』 岩波書店 2004年9月
  本書は、プラトンに「対話篇」の思考構造を正面から論じた、本格的な研究書である。現代、様々な
思想領域において、「対話的思考」「対話的論理」が問われるときに、西洋的知の根本から、この問題
を取り上げている点で、本書の読者は、それぞれの関心に従って、多くの知的刺激を受けることができ
るものと思われる。

<2004年8月>
・M.シェーラー 『平和の理念と平和主義』 富士書店 1991年4月
 本書は、哲学者シェーラーが平和を論じた小品であり、彼の最晩年の著書である。平和論の思想的な
構築という課題が重要なテーマとなっている今日、翻訳されてすでに10年を経過しているが、再度取り
上げてみたい文献である。

・深井智朗 『超越と認識 20世紀神学史における神認識の問題』 創文社 2004年8月
 本書は、日本におけるパネンベルク研究としてもっともまとまった論考であり、今後の議論の基礎となる
べきものである。しかし、本書は副題に示されているように、狭義のパネンベルク研究にとどまらず、バル
ト、ブルンナー、モルトマン、ティリッヒなど、20世紀のプロテスタント神学全体を扱っており、20世紀神学が
いかなる問いをめぐって展開してきたのかについての著者の見解が十分に示されている。ポイントは、書
名にあるように、超越と認識、つまり、神認識の問題であるが、より具体的にはフォイエルバッハ問題への
20世紀の神学者らの応答とそれにおける人間学の位置づけということにあると言って良いであろう。なお、
本書の解説としては、『創文』No.466(2004.07)で著者自身が説明を行っているので、参照いただきたい。

<2004年4月>
・『岩波講座・宗教4 根源へ 思索の冒険』岩波書店 2004年3月
 本書は、現在進行中の『岩波講座・宗教』の第4巻目にあたる論集であり、宗教哲学的な諸問題が様々な
視点において取り上げられている。これまで宗教哲学としてイメージされていたものよりも、問題設定に広が
りが感じられ、内容的にはもちろんのこと、そうした点でも興味深い論集である。結びの「読書案内」は、とくに
有益である。

<2004年3月>
・武藤慎一『聖書解釈としての詩歌と修辞 シリア教父エフライムとギリシア教父クリュソストモス』(教文館)
       2004年1月
 本書は、武藤慎一氏が京都大学大学院文学研究科(キリスト教学専修)に提出し受理された博士学位論文
を基にしたものであり、キリスト教古代教父についての学問研究(教父学)として本格的な研究成果である。と
くに、シリア教父に関するまとまった研究は、日本では皆無であり、日本語でこうした専門領域の研究成果が
出版されたことは、画期的なことであって、それだけでもキリスト教研究にとって大きな意味があると思われる。
しかし、本書は日本のキリスト教研究に新しい領域を開いたのみならず、その内容においても、シリアとギリシャ
という二つのキリスト教古代の思想世界を対比させている点、また、修辞や言語というテーマに関して、現代の
解釈学や言語論を十分に参照しつつ議論を展開している点など、注目すべき論点を多く含んでいる。今後、日
本における教父研究が、より高い学問的水準をめざして展開されることを期待したい。

<2004年2月>
・大貫隆 『イエスという経験』岩波書店 2003年10月
 本書は、新約聖書から、グノーシス主義、そして古代教父まで、日本の古代キリスト教研究をリードする大貫氏
のイエス論であり、最近の言語論や社会理論を大胆に聖書研究に導入してきた氏のイエス論として、わたくしだ
けでなく、多くの人々が注目する学術書である(本人はあとがきで専門書ではないと述べているが)。その点で、
本書のキーワードは、メージネットワークであり、一年ほど前に翻訳されたバートン・マックの『キリスト教という神
話 起源・論理・遺産』(青土社)と読み比べるのもおもしろいであろう−近年のアメリカを中心としたキリスト教世
界の動向や世界情勢を念頭に置いている点でも両者は共通している−。また、日本人による聖書研究に留意し
ている点も本書の特徴といえるであろう。

・新約聖書翻訳委員会訳 『新約聖書』岩波書店 2004年1月
 これまでも多くの新約聖書の日本語訳が存在してきたが、学問的な水準は当然としても、本書はこれまでの翻
訳と比較して重要な特徴を持っている(これらの特徴は、プロテスタントとカトリックとの聖書の共同訳の欠点とし
て指摘されてきた事柄に関わっている)。たとえば、新約聖書の各文書の翻訳者の氏名が明記されていること、
詳しい注が付され各文書の翻訳者による解説が行われていること、原文の直訳調の優先という翻訳方針を採っ
ていることなどである。日本は、キリスト教徒人口に比べて、聖書の発行数が多いという不思議な国ではあるが、
このように学術的レベルの高い聖書翻訳への需要があるということも特異な点であろう。キリスト教に関わる者と
して、手元に置かざるを得ない翻訳と言える。

・タラル・アサド(中村圭志訳) 『宗教の系譜 キリスト教とイスラムにおける権力の根拠と訓練』 
   岩波書店 2004年1月
 本書は、中世キリスト教からイスラーム神学までを題材にして、宗教論の再構築を、とくに人類学の視点から行
おうとした興味深いものである。おとがきによれば、アサドはサウジアラビア生まれの社会人類学者であり、現
在、ニューヨーク市立大学の大学院で教えており、本翻訳書は、1993年の著書の部分訳とのことである。

・『岩波講座・宗教2 宗教への視座』岩波書店 2004年1月
 この岩波講座は、21世紀の宗教あるいは宗教研究を展望し、新しい宗教の可能性を射程に入れつつ企画さ
れた。昨年より出版が開始され、全体で10巻の規模となる。現代日本における代表的な宗教研究者の多くがこ
の企画に参加しており、全体として充実した内容が期待できる。本書は、その二冊目であるが、宗教をいかなる
視点から捉えるのかをめぐり、多様な議論が展開されている。 

<2003年12月>
・土井健司 『古代キリスト教探訪 キリスト教の春を生きた人びとの思索』 新教出版社 2003年12月
 本書の著者、土井健司氏は、日本の古代キリスト教思想研究の分野で、現在もっとも活発に研究活動を行っ
ている若手研究者の一人である。本書は、一年あまりにわたって『福音と世界』に連載されていた氏の論考をま
とめたものであるが、読みやすさはもちろん、読み応えのある内容であり、キリスト教思想を学ぶ者には、ぜひ一
読をお奨めしたい好書と言える。

<2003年9月>
・大島末男 『カール・バルトにおける神学と歴史』麗澤大学出版会  2003年9月
 本書は、著者が1970年にシカゴ大学神学部に学位請求論文として提出した論文を書き改めたものであり、そ
の後著者が、バルト、ティリッヒ、ハイデガー、ホワイトヘッドという20世紀を代表する神学者・哲学者の思想と正
面から取り組んだ思索過程のいわば原点と言えるものである。この30年のうちには、多くのバルト研究が現れ、
研究者の世代交代も行われたが、本書は日本のバルト研究における貴重な成果であり、今後のバルト研究に
おいてさらに展開されることが期待される。

・松永希久夫 『歴史の中のイエス像』NHKブックス 1989年4月
 本書は、「NHK市民大学」の同名でなされた講義テキストをもとに大幅に加筆されてできた第一部「イエスの実
像を求めて」と、この第一部を補足するために本書に加えられた第二部「神と人間とのかかわりを問い直す」で、
構成されている。わたくしも、第一部のもとになったNHK市民大学のテキストは手元にあったものの、今回、ある
機会に、わかりやすさにおいて評価の高い、本書を蔵書に加えることになった。イエスの歴史像は、古くて新しい
問題であるが、本書は、現代のキリスト教研究における一つの代表的な立場からの議論として位置づけることが
できるであろう。

・松尾章一 『関東大震災と戒厳令』吉川弘文館 2003年9月
 関東大震災から80周年を迎えた2003年9月に、この震災時に起こった「朝鮮人・中国人虐殺」をめぐる論争
を振り返る研究書が出版された。この虐殺の問題は、近代日本という国家のあり方を理解する上で重要なもの
であるだけでなく、キリスト教会をはじめ、近代日本の宗教がいかなる社会的存在であったのかを問い直す上で
も、改めて注目すべきものと言えよう。

<2003年8月>
・松山康國 『風についての省察 絶対無の息づかいをもとめて』春風社 2003年8月
 本書は、絶対無、西田哲学、キリスト教神秘主義などについて、著者が長年、追求してきた広範な思索を収録
した論集である。著者、松山氏は、独自の思想によって知られた研究者であるが、本書によって、その重厚な思
索の一端に触れることができる。

・土井健司 『キリスト教を問いなおす』 ちくま新書 2003年8月
 本書は、土井健司氏が、平和、隣人愛、神、祈りといった基本的なテーマについて、独自の視点から論じたキ
リスト教入門書である。入門書と言っても、土井氏の主体的な関心がいたるところに現れ、また氏の大学での講
義の雰囲気も感じ取れるすぐれた著書である。キリスト教信仰を持っていない者はもちろん、すでにキリスト教徒
である者も、自己の信仰を問い直す上で、よい導きになるものと思われる。

<2003年7月>
・C.マルクシース 『天を仰ぎ、地に歩む ローマ帝国におけるキリスト教世界の構造』(土井健司訳) 
             教文館 2003年7月
 本書の著者マルクシーシは日本ではあまり知られない研究者と思われますが、訳者あとがきでは、マルクシー
スは、ハイデルベルク大学神学部に所属する、教父学や教会史の若手の研究者であり、ドイツの良き学問的伝
統を受け継ぐ人物として紹介されています。教父学や教会史に関して日本の若手を代表する研究者である土井
氏が高く評価するマルクシースに、今後注目してゆきたいと思います。

・G・A・リンドペック 『教理の本質 ポストリベラル時代の宗教と神学』 
   (田丸徳善監修 星川啓慈・山梨有希子訳) ヨルダン社 2003年7月
 本書は、現代アメリカのイェール学派の中心人物として著名なリンドベックの主著の翻訳である。訳者の一人
星川氏は、宗教的多元性の議論の中で、リンドベックに注目してきた研究者であり、その連関から「あとがき」
では内容紹介が行われている。イェール学派への評価は様々名であるが、現代アメリカ神学の基本的文献の
一つであることは疑いもない。

・A.チェスター、R.マーティン 『叢書 新約聖書神学13 公同書簡の神学』(辻学訳) 
   新教出版社 2003年7月
 本書はケンブリッジ大学出版から公刊されている新約聖書の注解叢書における「公同書簡」(ヤコブ、ユダ、
第一第二ペトロ書)の巻の邦訳である。訳者の辻氏は、新教出版社から刊行された『ヤコブの手紙』(現代新
約注解全書)の著者であり、公同書簡研究の第一人者であり、また日本の新約研究の若手を代表する研究
者である。

<2003年5月>
・藤井正雄他 『9.11テロと大学』(大正大学研究所叢書 第11号) 大正大学 2003年3月
 本書は、2002年6月12日に開催されたシンポジウム「アメリカの大学・テロ・宗教」における発表や質疑応
答が論文化されたものであり、9.11同時多発テロという問題に大学あるいは大学人がいかに向き合うかにつ
いて、真摯な議論が展開されている。とくに、第一部の星川啓慈、藤井正雄、八木久美子、藤原聖子の各氏に
よる論文は、宗教研究が平和という観点においていかなる現代的意義を有しているかについて考えさせる論考
である。

<2003年3月>
・京都大学文学部編 『知のたのしみ学のよろこび』 岩波書店 2003年3月
 現在、日本の大学全体は、新しい大学への転換を目指して様々な取り組みを開始している。京都大学文学部
も例外ではなく、2002年度(後期)からスタートした、21世紀COEプログラム「グローバル化時代の多元的人文
学の拠点形成」
はこの動きを象徴的に示している。昨年このCOEプログラムの一環として、二つの国際シンポジ
ウム(2002/12/02に「「自然という文化」の射程」、2002/11/30に「歴史学の現在を問う」)が開催され、文学部
からの情報の発信が試みられた。本書は、このシンポジウムを元に、それを拡張する形で企画されたものであ
り、現在京都大学文学研究科・文学部に所属する教官の半数程度の人々のエッセイで構成されている。文学部
とは、人文学研究とは、具体的に何をどのように行い、何を目指しているのかについて、様々な角度から知るこ
とができる。

・井上治代 『墓と家族の変容』岩波書店 2003年2月
 墓と家族、これは宗教学全体、とくにわたくしの研究フィールドであるアジア・キリスト教研究にとって、重要な
研究テーマである。つまり、キリスト教が近代化以降のアジアの文化的社会的状況(宗教的多元性)において、
いかなる仕方で受容され、そこにどのような問題を生じて現在に至っているのかを論じる上で、死者儀礼を含む
葬儀や墓、そしてそれと相関する家族の実態を正確に捉えることは不可欠の前提であり、本書はこうした点に
関して貴重なデータと分析・洞察を与えてくれる。本書は著者が淑徳大学大学院社会学研究科に提出の博士
論文とのことであるが、墓と家族をめぐる本格的な宗教社会学的あるいは家族社会学的な研究成果と言えよう。

<2003年2月>
・藤田正勝他編 『東アジアと哲学』 ナカニシヤ書店 2003年2月
 本書は、「西洋の衝撃」(「近代化のプロセス」)のもとで、日本、韓国、中国で始まった近代の「哲学」の諸相・
諸動向を、多角的に論じた論文集である。内容の詳細は、本書を直接お読みいただく必要があるが、各研究領
域の専門家による25の論文(章)は一つ一つが読み応えのあるものとなっている。たとえば第一二章「韓国の
キリスト教における対話の思想」に示されているように、この論文集は、「東アジアのキリスト教」を考える上でも、
重要な意味を有しているように思われる。

<2003年1月>
・パネンベルク 『なぜ人間に倫理が必要か』(佐々木勝彦、濱崎雅孝訳) 教文館 2003年1月
 本書は、現代ドイツの神学界を代表するパネンベルクの著書の邦訳である。パネンベルクは、神学思想はもち
ろん、その広い学問的知識に基づいた著作によって、現代のキリスト教思想に大きな影響を及ぼしているが、本
書は、彼の倫理学の基礎・原理をめぐる論考である。大きさは比較的コンパクトであるが、訳者解説にあるよう
に、大著『組織神学』全三巻の補足という意味でも興味深い。本書によってパネンベルクに関心を持った方は、
250ページに付されたパネンベルクの「邦訳文献一覧」から、さらに先に進むことができるであろう。

<2002年12月>
・小松美彦 『人は死んではならない』春秋社 2002年11月
 本書は、小松氏が永井明、小俣和一郎、宮崎哲弥、市野川容孝、笠井潔、福島泰樹、最首悟、土井健司の各
氏と行った対談集であり、生命科学のもたらした新しい問題状況の中での、死をめぐる思想的諸問題を扱ったも
のである。

<2002年11月>
・坂部恵、藤田正勝、鷲田清一編 『九鬼周造の世界』ミネルヴァ書房 2002年10月
 高坂正顕 『歴史的世界』(京都哲学選書 第25巻) 燈影舎 2002年10月
  これら二冊は、京都学派に関係する著作である(一つは九鬼の思想を論じた論文集、もう一つは高坂の著
書)。いずれも、今後、京都学派の思想が体系的に、しかも近現代の思想的文脈で研究される上で、意味深い
ものと言えよう。キリスト教思想との関わりという点からも、興味深い研究動向である。

<2002年9月>
・西村俊昭 『旧約聖書における知恵と解釈』創文社 2002年7月
 本書は、著者による先著『旧約聖書の予言と知恵』(創文社)に続くものであり、第一部では、ダニエル書とコ
ーヘレトを対象に、黙示と知恵についての詳細な議論が展開されている(第二部はやや一般向けと言えよう
か)。氏は、伝統的な歴史的批判的な文献学・聖書学の方法論に、構造分析的手法を結びつけることによって、
知恵と黙示のテキストにアプローチしているが、これは、知恵文学、黙示文学というテキストの特性にかなってい
ると言えよう。リクールのテキスト解釈学(隠喩と物語)などを用いた1970年代以降の聖書学の方法論的展開
において、聖書テキストを読みという姿勢と共に、聖書における知恵文学の集中的な取り扱いなどにおいて、本
書は、日本における聖書学の重要な成果として評価できるように思われる。

<2002年7月>
・H.クラウト『キリスト教教父事典』教文館 2002年5月
 本書は、キリスト教古代の思想的担い手である「キリスト教教父」についての専門事典であり、キリスト教思想
を学ぶ者にとっては、きわめて有用な事典である。良い事典の条件は、使いやすく信頼がおけることであるが、
この事典は、この種の専門事典を翻訳するのにふさわしい翻訳陣を得たこともあって、身近において利用する
のに良い事典となっている。関連年表、欧文→和文項目対照表、欧文・和文書名索引なども充実しており、古
代教父の人名や著作名に不慣れな者にとっても、便利である。

<2002年6月>
・『希望の旅路 聖書に聴く「老い」』日本基督教団出版局 2001年11月
 本書は、説教者として長年教会に奉仕してきた方々が、それぞれ聖書の言葉を手がかりに、「老い」というテ
ーマに関して書いた説教を収録した説教集である。説教執筆者には、李仁夏、岩村信二、大隅啓三、大橋弘、
金井輝夫、宍戸好子、清水昭、辻哲子、平方美代子、藤木正三、三永恭平、三好鉄雄、桜井綾子、吉田満穂の
各氏が含まれているが、日本社会に先立って超高齢化が現実の問題となりつつある日本のキリスト教会(山下
勝弘『超高齢社会とキリスト教会』キリスト新聞社 1997年におけるデータ参照)に対して、個性あふれるメッセ
ージが語られている。 

<2002年5月>
・支倉寿子/押村高編 『21世紀ヨーロッパ学−伝統的イメージを検証する−』 ミネルヴァ書房 2002年5月
 本書のまえがきによれば、この論集は「脱産業化、グローバル化、EU深化・拡大、という変化の三つの波の
なかで、伝統より革新のベクトルに向け動き始めたヨーロッパを解剖し、新しい<ヨーロッパ学>を素描するこ
ころみ」であり、青山学院大学総合研究所政治経済研究センター研究プロジェクト「ヨーロッパ的価値観の変容
−二一世紀のヨーロッパ学をめざして」の成果である。実際取り上げられるテーマは多様であり、第一部の「政
治経済の変貌」(国民アイデンティティの流動化、女性の社会参加)、第二部「文化の発展的継承」(哲学ブーム
が示唆するもの、地方が築く文化共同体)、第三部「映画が占うヨーロッパ」(そしてイタリア映画は行く、階級なき
社会は可能か)となっている。わたくしの専門との関わりでは、第二部第三章の「哲学ブームが示唆するもの」
(茂牧人著)が、副題(ハイデガーは無神論者か)とあるように、『哲学への寄与』によってハイデガーの神を論じ
たものとして、とくに興味深い。

<2002年3月〜4月>
・辻学著 『現代新約注解全書 ヤコブの手紙』 新教出版社 2002年3月
 辻学氏が、学位論文と『福音と世界』の連載論考とをもとに、書き上げられた、本格的な「ヤコブ書」の注解で
す。日本人による日本人のための世界的水準の注解書として、わたくしも、研究に説教に活用させていただき
たいと考えています。  

・荒井章三・早乙女禮子・山本邦子訳 『マルティン・ブーバー聖書著作集 第1巻 モーセ』 
                                       日本キリスト教団出版局
 早乙女、山本両氏が、この数年来ブーバーの翻訳に取り組んでこられたことは、伺っていましたが、それが、こ
の『モーセ』の邦訳として結実しました。わたくし自身は、まだまだブーバー研究を行う段階に到達しておりません
が、様々な機会に参照させていただきたいと思います。

・笠井恵二著  『十戒の倫理と現代の世界』 新教出版社
 笠井氏が、現代の若者を念頭において、若者に語りかけるように書かれた著書です。キリスト教思想を扱う講
義などで、参考文献として推薦したい一書です。

・土屋 博著  『教典になった宗教』 北海道大学図書刊行会
 土屋氏が学会などの発表を通して取り組んでこられた、「教典論」がまとまった形で公になりました。宗教研究
における「教典論」という視点の設定の仕方には、教えられる点が多くありますし、とくに第三部のブルトマン論
は、熟読させていただきたいと考えています。また、第二部第三章の「日本における聖書の受容とその機能も
変化」では、内村鑑三の聖書理解が扱われており、わたくし自身の、今年度の演習(「日本・アジアのキリスト
教」)においても、参考にしたいと思います。

・深井智朗著  『文化は宗教を必要とするか 現代の宗教的状況』 教文館
 深井氏が一貫して追及している「文化の神学」が、具体的な文化領域の諸問題においていかなる仕方で具体
化されるのかを知る上で、最適の論文集です。扱われる経済、法、芸術(表現主義)、スポーツ(オリンピック)、
日本宗教(「神道指令」)は、いずれも興味深い内容であり、深井氏の視野の広さには、驚かされます。

・深井智朗著 『ハルナックとその時代』 キリスト新聞社
 深井氏が、ハルナックの 『キリスト教の本質』出版100年、ハルナック生誕150年を意識しつつ、まとめられ
た論文集です。深井氏も指摘されているように、日本ではバルトの影響もあり、これまでハルナックの正当な評
価がなされてこなかったように思われます。しかし、ハルナックのキリスト教思想研究、とくに思想史研究に対す
る寄与の偉大さは、強調しすぎることはありません。シュライアーマッハー、トレルチの再評価を含めて、19世紀
のキリスト教思想の本格的研究が、我が国でも待たれるところです。深井氏がそのことのためにもっともふさわ
しい研究者の一人であることは、本書からも明らかであるように思われます。


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