宗教的寛容・問題群の構造

 「宗教的寛容」(Religious tolerance) は、様々な角度からの分析を必要とする複合的かつ錯綜した問題である。とくに問題となるのは、西欧近代で成立した基本的人権としての「信教の自由」との関わりにおける「宗教的寛容」─Acts of Toleranceは、「寛容令」とも、「信教自由令」とも訳しうると、時代や伝統を超えて問題となる宗教的「寛容」キリスト教思想の範囲でも「寛容論」は古代に遡るとの区別あるいは相互関係をいかに明確化し、議論を行うかである。ここでは、こうした問題状況が包括する問題群を以下のように整理し、現代において宗教的寛容を論じる手掛かりとしたい。

(1)歴史的問題群(とくにキリスト教史・キリスト教思想史において)

1.キリスト教における「寛容」一般についての歴史的考察
 ローマ帝国国教化後の異教への「寛容」、異端問題に関わるアウグスティヌスの一連の議論など、キリスト教の歴史においては、「寛容」という問題連関において論じるべき問題は多く存在しており、こうした中で、キリスト教的な「寛容」とでも言うべき事柄を十分な内実を伴った仕方で取り出すことができるかは、大きな研究テーマとなる。

2.西欧近代における「信教の自由」との関わりおける「宗教的寛容」の歴史的考察。
 おそらく、キリスト教の歴史において、宗教的寛容を問う場合、その中心問題は、近代的な信教の自由に関連した寛容の問題であろう。これは、漠然とした寛容ではなく、一定の法的な内容を伴い概念化可能な寛容であり、この寛容概念の明確化こそが、関連する問題群を議論するための基礎になるものと思われる。しかし、この近代西欧における宗教的寛容を十分な仕方で論じるには、少なくとも以下の諸領域、諸観点に留意しなければならない。
    ・国家あるいは地域の多様性
      西欧近代の宗教的寛容は数百年の時間と様々な地域のコンテキストの中で徐々に形成されたものであ
 り、こうした事情を捨象した一般化は宗教的寛容を理解する妨げになるであろう。とくに、歴史的影
 響という点で重要になるのは、オランダ、イギリス (イングランド)、アメリカという相互に密接
 に連関した三つの地域と思われる。これらの地域で、信教の自由の範囲が、いかにしだいに拡張され、
 現在の形態にいたったかについては、その歴史的プロセスを精密に分析することが求められる。

    ・教派の多様性
      西欧近代において、宗教的寛容が問題化する直接の背景に存在したのが、宗教改革と宗教戦争がもた
 らした教派的多元性の状況と、そこに近代的な市民社会の秩序を構築するという政治的課題であった
 ことはよく知られた事柄である。とくに、この問題がきわだったものとなったのは、国教と非国教の間
 においてである。というのも、ここにおいて国家的秩序が明確に問われることになるからである。ま
 た、国教的システムの存在しない場合における諸教派間の相互関係をいかに捉えるのか、とくに、ア
 メリカの場合にしばしば指摘される「市民宗教」をどのように扱うかは、大きな問題となるであろう。

 ・時代における相違と連関
      同じ地域、同じ教派であっても、宗教的寛容の歴史的実態には変化が見られるのは当然であって、そ
 れを単純化して、たとえば、「イングランド国教会は
……だ」などと述べることには慎重でなければ
 ならない。これは、宗教的寛容の議論で有名なロックという個人に関しても言えることであり、あるい
 は17世紀の教派的多元性下における宗教的寛容と20世紀の宗教的多元性下における宗教的寛容を論
 じる場合にも当てはまることである。


 ・個人の思想家を焦点とした歴史研究
       宗教的寛容論においても、ある一定の時代における議論をリードした中心的思想家が存在し、宗教
 的寛容についての歴史研究として、こうした個人の思想家に焦点を合わせた研究は可能であり、また有
 益である。おそらく、ジョン・ロックはこうした人物の代表者の一人である。

(2)思想レベルにおける問題群(哲学、神学、法学・政治学など)

 西欧近代において一定の法的社会的システムとして成立した「宗教的寛容」については、その論理的根拠や整合性、あるいは法的政治的な有効性や妥当性を理論的に論じる必要がある。たとえば、西洋近代の信教の自由や政教分離が、果たして宗教的多元性を前提とした社会システムに中で、真に有効に機能できるのか、あるいは、こうした議論で前提となる「公」と「私」の区別がいかなる意味で用いられるのか(また用いられ得るのか)、など理論的に解明すべき問題は決して少なくない。キリスト教神学との関連でも、信教の自由は聖書の思想(これ自体も多様であるが)とどのように関連づけることができるのか、宗教的寛容はキリスト教の宣教論と果たして整合するのか、そもそも真に寛容であるとはキリスト教的に言っていかなるものなのかなど、体系的な議論を要する問題が数多く存在している。

(3)社会学的問題群

1.
宗教的寛容の実態調査
 果たして、現代のキリスト教が宗教的寛容という観点から見て、いかに評価できるのかについては、印象的直観的な議論を超えて、明確な実証的データの裏付けにおける議論を行う必要がある。宗教的寛容だけでなく、世俗化や土着化などについても、実証的裏付けのない議論が多くの混乱を生む事例は少なくない。おそらく、実態調査はいかなる方法論においてなされるべきか、という基本的レベルからの議論が必要なように思われる。

 2.今動きつつある「寛容」の動向を捉えるという問題
 宗教的寛容が、西欧近代の歴史的文脈を超えて、より一般的な仕方で問題となるという点については、先に指摘した通りであるが、実際、「寛容」には今様々なコンテキストにおいて生成しつつあるという側面がある。とくに、現代の多元的世界における「寛容」については、宗教的寛容あるいは寛容一般についての固定的な概念枠を前提にした研究では十分に理解できない、あるいは問題を歪曲してしまう、といった危険がある。この場合、寛容概念自体の生成過程を論じることが必要であり、これには社会学的考察が不可欠になる。

3.(2)の思想レベルの議論に関わる問題
 (2)で指摘した、「公/私」の枠組みや公共性をめぐっては、社会システムに関わる一般的理論構築が必要になり、これは社会学の理論的問題領域に属すると思われる。


(4)寛容概念の拡張と比較(比較宗教学を視野に入れて)

1.拡張

 (1)で明らかにされた「宗教的寛容」概念は、(2)(3)の議論を経ることによって、その有効性や限界が顕わとなり、現代の多元的世界により妥当する仕方で改訂し、拡張することが必要になるであろう。その際に、この作業をキリスト教的視点から行おうとするならば、次の二つのファクターを念頭に置くことが求められる。一つは、現代の流動的に動きつつある多元的世界の動向を視野に入れることであり、それには次に述べる「比較」が大切になる。そしてもう一つは、キリスト教についての理解を深める作業である。「キリスト教とは何か」について特定の伝統的な立場からなされた既存の答えを超えて、この問いに正面から向き合うことなしには、伝統的な「宗教的寛容」の限界をキリスト教的に超えることなど不可能であろう。

2.比較
 自らの伝統を批判的に反省するには、他の多様な立場との対話を様々なレベルで行う必要がある。西欧近代の宗教的寛容システムを問い直す場合に留意すべきは、宗教的多元性下における宗教的「寛容」についての。西欧近代のそれとは別のシステムの存在に注目することである。具体的には、この点で、イスラームにおける宗教的寛容、とくに、オスマン帝国のミレット制における多民族共存については、包括的な比較研究が重要と思われる。

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