終末論の考察
(入院後の閃き)
<前提>
1.一切の事柄に意味がある
2.明日終末が来ようとも、わたしはリンゴの木を植える(ルター)
<考察>
・皆殺しゲームで、最後に残った者は、勝利者であると同時に敗者である。
自然環境は変わらなくとも、彼が統治すべき王国はすでに存在しない、全ての臣民は死に去ったのだから、
したがって、もはや王自体が存在しないことになる。一切を手に入れる行為がまったくの無意味を生じた。
・意味は連鎖・連関であり、その中のあらゆる事柄は、そこから無限の意味の探求の入り口となり得る。どんな小さな
ことも、どんなつまらない人生も、無意味と見える行為も、宇宙の全体に対してしかるべき貢献を行い、連鎖の中で
意味づけられる。
すべての点は無限の意味の発端であり、それが永遠の意味。
・人生は死によって無意味と化するのか。すべて無に帰する。と、考えるか、あるいは自分のつまらないささやかな
生が確かに永遠につながっていると考えるか。
おそらく、ルターは後者であった。彼にとって終末とは何であったかがポイント。現代人が考えるような終末=虚無
という終末論ではなかったのだろう。終末は意味、歴史の完成、そしていまだ終末以前、とすれば、自分に与えられ
た日々の職務をそれがどんなに小さな事でも今日も行うこと、これが終末における全体の完成に対する自分の貢献
となる、だから、今日もりんごの木を植えるのだ、明日終末が来ようとも。
・もし、死の問題に解答があるとすれば、キリスト教的にはこのようになる。
意味連関内部での意味、そしてその連関全体が終末で完成するという立場。
したがって、今この些細なすべてが終末に繋がり、終末は現在的である、が、その全体的成就は将来的である。