レトリック的共同性におけるキリスト教
キリスト教は「愛」の宗教といわれ、キリスト教会は「愛」の共同体(神の家族)ともいわれる。
しかし、「愛」に限らず、キリスト教共同体で流通している言葉は、この共同体外部から見たとき
に、その意味が不明なものが少ないように思われる。
言語(語でも文でも、テキストでも)に関して、意味と指示の区別を行うならば、キリスト教共
同体におけるかなりの言語表現は、その共同体内部で、その意味は了解可能であり、いわば
自明であるものの、その指示は不明であると、この議論を整理することができるであろう。
「隣人を愛する」。もちろん、意味はわかる。でも、これは具体的に何を、いかなる事態指
し示しているのか。教会では、世俗的な人間評価とは別の基準が大切されるべきである、
それはそうかもしれない。では、それはこの共同体外部の人にとっていかなる意義を有
し、またいかなる仕方で発信されるのか。聖餐式をオープンにするという際に主張される、
キリストの愛の普遍性や聖霊の遍在は、この共同体外部の世界に、聖俗二分法(共同
体と内と外の境界線)の脱構築・撤廃のメッセージを発信しているのか。それならば、そ
れは、共同体のメンバーシップに関わる二 分法(とくに、洗礼において現れる)の脱構
築に至らないのか。
宗教言語とくに隠喩表現については、その指示機能が存在しないとの議論がしばしばなさ
れてきた。隠喩表現は言語外部に実在への指示機能が存在しない、その意味で、隠喩は、
自己指示的であり、美的存在である。隠喩を含めたレトリックを、このように指示の廃棄として
位置づけるとするならば、キリスト教共同体で流通する言語は、常にこの意味におけるレトリ
ック化にさらされているといわねばならない(これを、終末的共同体としてのキリスト教共同体
の独自性・存在意味と解するか、近代以降の世俗世界におけるキリスト教の無意味化と解す
るかは、見解が分かれるであろうが)。キリスト教共同体がレトリック的な共同性に規定され
ているという事態が現代日本においてかなりの程度確認可能な状況であることは、おそらく
否定できないように思われる。
この事態を受けて、次に、未来に向けて、何を構想するかは、別の問題である。