現実の宗教と宗教の理想

                                                   京都大学  芦名定道

 宗教思想を研究していて、常々感じることの一つは、宗教ほどその真理・理想と現実との間のギャップが大きいものはないということである。たとえば、多くの宗教思想において、平和は人間関係の理想と解されている。実際、聖書に収められたイエスの言葉、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書 五章四四節)は、西洋における平和思想の源泉の一つであり、しばしば絶対的平和主義として理解されてきた。キリスト教以外の諸宗教においても、平和思想は様々な豊かな仕方で表現され、人々の生き方を導いてきたのである。しかしその反面、宗教もまた人間社会の諸対立の中に組み込まれており、しばしばその対立を促進してきたということは否定しようもない。とくにキリスト教はイエスの平和思想にもかかわらず、多くの戦争を宗教の名の下で正当化してきたのである。これが現実の宗教の姿である。昨年九月に起こった米国同時多発テロとその後のアフガニスタンでの戦闘に関連して、その多くを宗教間対立と短絡的に結びつけることは戒められねばならないとしても、そこに宗教が一定の関与を行っていることは疑いようもない。宗教の理想としての平和と、現実の宗教が関与する戦争という、この明らかに矛盾した事態、理想と現実とのギャップを、どのように理解したらよいのであろうか。以下、第二次世界大戦前・中・後を生き抜いたキリスト教思想家、矢内原忠雄の「国家の理想」を手がかりとして、この矛盾した事態に関して、若干の考察を試みることにしたい。

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 矢内原忠雄は、一九三七年の『中央公論』九月号に「国家の理想」(『国家の理想──戦時評論集──』岩波書店、一九八二年 三六一〜三八四頁)という評論を発表した。この評論をめぐって、矢内原は十月下旬の東京帝国大学経済学部教授会において大学教授としての適格性を問われ、最終的には、依願免官(十二月二日付け)という形で、大学を去ることになる(同評論集所収の「戦の跡」一九四五年 四九七〜五一一頁)。「国家の理想」は国家の理想についての単なる理論的評論ではなく、当時の緊迫した時代状況の中で書かれたものであって、そこに、思想家としての矢内原の核心点を見出すことは困難ではない。ここでは、矢内原の主張のポイントを概観し、その上で、本稿のテーマである、宗教における理想と現実のギャップに関して、議論を深めてみたい。

 @現実を批判する視点としての真理・理想

  「現実国家の行動態度の混迷する時、国家の理想を思ひ、現実国家の狂する時、理想の国家を思ふ。
  之は現実よりの逃避ではなく、却つて現実に対して最も力強き批判的接近を為す為めに必要なる飛躍
  である。現実批判の為めには現実の中に居なければならないが、現実に執着する者は現実を批判する
  を得ない。即ち現実によりて現実を批判することは出来ないのである。現実を批判するものは理想であ
  る。……理想の高度の高き程、現実批判は強力たり得るのである。」(三六一頁)

 まず、理想は現実の諸矛盾を批判するものとして捉えられている。この点で、理想と現実との間にギャップが存在するのは、当然であって、理想が理想として意味をもつためには、それは現実を高く超えたものでなければならない。平和という宗教の理想は、現実の宗教の限界にもかかわらず、否それだからこそ、いっそう高く掲げられねばならないのである。

 A現実を形成する原理としての真理・理想
 理想は現実を超えているとしても、現実と完全に断絶しているわけではない。この点に関連して、矢内原は個人にとっての理想の意味を論じた後に、国家の問題へと論を進めてゆく。まず、個人にとっての理想であるが、それは個人を人間たらしめる「意味、価値、精神」の基底として位置づけられる。人間が他の動物と違うのは、所与の現実に本能によって適合するだけでなく、むしろ一定の価値観に従って現実に働きかけそこに新しい意味を形成するからに他ならない。理想とは、こうした意味、価値、精神を成り立たせ、人間が人間として生きることを可能にする原理として考えられねばならない。同様のことは、国家についても妥当する。国家が国家の名に値するものであるためには、それは国家を形成する形成原理としての理想に基づかねばならない。

  「かくして我等が国家の理想として認識するところは、社会的且つ組織的なる原理、換言すれば社会に
  組織を附与するところの根本原理でなければならない。かかる性質を有する原理は『正義』である。正義
  とは人々が自己の尊厳を主張しつつ同時に他者の尊厳を擁護する事、換言すれば他者の尊厳を害せざ
  る限度に於て自己の尊厳を主張する事であり、この正義こそ人間が社会集団を成すに就ての根本原理
  である。……更に具体的に言へば、弱者の権利をば強者の侵害圧力より防御する事が正義の内容であ
  る。」(三六四頁)

 矢内原は、現実の国家を真の国家へと形成する正義の原理とは、具体的に言えば、「対内的には社会正義、対外的には国際正義」(三六八頁)であり、それゆえ、「正義原則が発現する形式は平和である」(三六九頁)と主張する。つまり、正義の理念の現実化としての平和は、現実の国家にとって必要不可欠のものなのである。

 B現実の政府は真の国家と必ずしも同一ではない
 国家が国家の名に値するのは、それが国際平和と国内平和(貧者弱者の保護)という形式において正義の理想を具現しているときであるという主張から、国際平和と社会正義に合致しない現実の政府は真の国家ではないことが帰結する。現実の政府がその理想とすべき国家の理想に反するものであるとき、国民はそれに抵抗しなければならない。というのも、現実の政府が誤ったとき、それに抵抗する者こそが、「国家の本質と理想を愛する者、即ち真正の愛国者」(三六七頁)だからである。正義に反した政策を遂行しようとして、政府が弾圧と宣伝によって人為的に挙国一致を作り出そうとするとき、個人や諸集団は、それに抵抗しなければならない。そのために必要になるのが、「異論の主張と批判の存在」、つまり言論の自由に他ならない。矢内原は、一九三七年の挙国一致に向かう時代状況に抗して、民主主義の擁護を試みたのであり、それが東京帝国大学からの追放に至ったのも、当然の成り行きと言わねばならないであろう。

 C国家の思想が発見される場としての宗教 
 矢内原の言う理想の重要性については理解できるとしても、では、我々はどのようにしてこの理想(国家に関しては、正義)をつかむことができるのであろうか。

  「理想は人の心の内部よりの賛成と尊敬とを以て支持せられるを要する。かかる理想発見の努力を、換言す
  れば純真なる学問及び宗教を、扼殺する社会は、己自身のたましひを扼殺するに等しいのである。」(「社会
  の理想」同評論集 四二三頁)

 宗教の存在意義はそれが理想発見の努力を行う点に認められるのであって、矢内原はその実例として古代イスラエルの預言者イザヤを挙げる。イザヤは、エジプトとの軍事同盟によってアッシリアに対抗しようとした政府(国王)に対して、神の正義に基づく平和を主張した。このイザヤの掲げた正義と平和という理想こそが、バビロン捕囚と民族の離散を超えた「ユダヤ民族の持続性自同性」という「世界歴史上に於ける一の奇蹟的事実」を可能にしたのである(三八一頁)。イザヤこそ、「真の愛国者であった」(三七九頁)。

 問題は、キリスト教を含めた現実の諸宗教が、理想発見という宗教的使命を十分に果たしてきたかということである。ここに先に指摘した、宗教の理想と現実の宗教とのギャップが存在するのであり、矢内原と共に、我々もかなり厳しい判断を下さざるを得ないであろう。「宗教は社会的勢力に対する依存関係を清算し、自己の信仰の純化を計ることによりてのみ、宗教それ自身の生命を取り戻し、且つ転換期の社会に対する進歩的貢献を果し得る。社会は宗教の純粋化を要求するのである」(四二二頁)。

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 以上、我々は矢内原の「国家の理想」を手がかりに、現実の宗教と宗教の理想との関係について、考察を進めてきた。確かに、人類の歴史において、現実の宗教は繰り返し自らの理想を裏切ってきた。しかし、その反面、宗教がその長い歴史の中で、徐々にではあるが、その理想を現実化してきたことも忘れることはできない。民族や階層・身分や性差にもかかわらず、すべての人間が神の前に平等であるという理想は、様々な逸脱を経つつも、明らかに進展してきたのである。おそらく、宗教思想を研究する上で肝心なことは、宗教の掲げる理想がその実現に向かうプロセスを十分に長い時間の流れの中で理解するという態度なのではないだろうか。
                      
                                                (あしな・さだみち キリスト教学)

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