海老名弾正・資料集(アンソロジー)

 以下の海老名からの抜粋資料は、京都大学キリスト教学専修(2003年度)における「海老名弾正演習」(日本・アジアのキリスト教)で扱った『基督教本義』を中心としたものです。以下に収録するに当たっては、漢字の旧字体や仮名遣いなどを部分的に現代のものに改めたことをご了解ください。なお、このアンソロジーには入力の際に思わぬ誤植が生じている可能性があるので、引用などする方は、原文でチェックいただきたい。


<収録文献>
 @『日本の説教1 海老名弾正』日本キリスト教団出版局 2003年
    「現代に対するキリスト教の使命」(『新人』4巻3号、1903年3月)
    「内界のキリスト」、『新人』10巻2号、1909年2月
 A「基督教概論未完稿」、「我が信教の由来と経過」
          発行者海老名一雄、昭和12年、非売品
          『近代日本キリスト教名著選集 第V期キリスト教受容篇 22』
          日本文書センター 2003年
 B『基督教本義』日高有隣堂 明治36年
          『近代日本キリスト教名著選集 第T期キリスト教受容篇 5』
          日本文書センター 2002年


@『日本の説教1 海老名弾正』日本キリスト教団出版局 2003年 
(1)「現代に対するキリスト教の使命」(『新人』4巻3号、1903年3月)

 「かの仏教の如き宇宙教すらも、日本に入りてよりは地方的着色を帯びて来った。ある人は、キリスト教が日本的にならねばならぬと言う。甚だあさはかなる考えと言わねばならぬ。キリスト教は、到底日本的になるほど小さいものではない。キリスト教は、既に民族的境域を超越している。キリスト教としてキリスト教たらしめよ。断じて日本的たらしむるべきものにあらず。……もとより、形式上は日本的となるべきは論を待たない。日本人の礼拝式は日本的たるを免かれぬ。しかし、事いやしくも真面目なる宗教そのものに至っては、それが日本的であると、ないしは米国的であると、英国的であるというべきものではない。キリスト教は、確かに民族的性格を超越して、またこれを包容する宇宙的のものを有している。国家的国民性がようやく発展する裏面において、絶えず神の国は建設せられつつある。……吾人は、霊と真とをもって神を拝する神の国、即ち倫理的世界を国民の裏面に造らねばならぬ。倫理の講義に非ず、倫理的社会の造営である。」(124)

 「クリスチャンの使命は、正にここに在る。「神の国は爾曹の衷に在り」とは、キリストの直覚、国家そのものの衷心にこれを発揮するは、キリストの使命である。我が日本帝国の衷心に、これを発揮する使命なしと思うか。……故に、神の国は個人を霊化し、社会を霊化し、世界を霊化し、国家を霊化し、宇宙を霊化する所の霊能である。」(125)

(2)「内界のキリスト」、『新人』10巻2号、1909年2月
 「この「万人」とは単にクリスチャンの団体を指せるのみではない。世界の人類を指したものである。さらば儒教も仏教もキリスト教もその源は一なりということが出来る。かく見なければ偏せるものであるが、まず「万人に貫」けるもの、これを内界のキリストという。これ歴史の内に存するキリストである。 」(196)

 「すなわち神の霊、彼の中にもあり、吾が中にもありと見ざるを得ない。彼の中にキリストあり、我が中にキリストあり、彼此相貫ける内在の神、これをキリストという。天を仰げば父よと呼び、内を省みればキリスト我がうちに在り、キリストが我が内にありて、キリスト我に在りて生けるなりとの自覚。この実験は、すなわち彼と我との握手するを禁ぜざらしめるところのものである。」(198)

 「クリスチャンのうちに発見する実験は、たしかに中国人のうちにもあり、インド人の中にもあり、イスラム教徒中にもある。もちろんその実験に大小もあるべく、優劣もあり、また明らかなると幽かなるとの差別はあろうが、種子の儼存していることは、疑うべからざる事実である。キリストの感化は、単に歴史の上にあるのみではない。世界各種の衷心において、一に連ぬるものがある。ここに至っては、もはや民族以上、国民以上、世界的のものである。」 (201)

 「山はあり、河はあり、海は隔つとも、皮膚の黄と白と黒とを問わず、言語風俗の異同を論ぜず、地球上の全人類がことごとく兄弟として姉妹として、交わり得る如くしたいのである。キリストは生きている、今もなお生きておる。肉のキリストは、二千年前に露と消えた。けれども、霊のキリストは永えに死せずして、今なお世界人類の精神の根柢において生きつつある。この精神の存するところに、キリスト教は盛んになり行きつつあるのである。この精神の生きつつある国民にして、始めて世界的国民たり得つつあるのである。……吾人が日本国民として、この事業の励精しつつあるのは決して偶然ではない。故に吾人は、この生けるキリストの指導感化を受けて、同じ霊河の流れに存え、同じ天の神を仰いでアバ父よと呼び奉り、先輩後輩相親しんで、吾人が天賦の使命を全うせんことを願うのである。しかして、我が日本国民においては、世界的自覚を取り、世界的大事業を負うて起たんことを望まざるを得ない。」 (203)


A「基督教概論未完稿」、「我が信教の由来と経過」
発行者海老名一雄、昭和12年、非売品
『近代日本キリスト教名著選集 第V期キリスト教受容篇 22』
日本文書センター 2003年



B『基督教本義』日高有隣堂 明治36年
『近代日本キリスト教名著選集 第T期キリスト教受容篇 5』
日本文書センター 2002年

序文
 「予嘗て新人雑誌紙上に於て論戦を植村正久氏に挑みたることあつた。その訳は基督教の本義は普通基督教会が標榜するが如き信条にあらずして、基督の宗教意識によれる霊能にあるを明白にせんが為であつた。」「先づ三位一体の信条に対する予が宗教的意識を陳べたる所」(序1)
 「予を聖人賢哲の宗教的意識の幾分を窺ふの便を得させしまたるは多々ありと雖、其の最も重なる書名を挙くれば」(序3)                            

序論
 「基督教の本義は基督の宗教である。基督の宗教とは基督自からの宗教であつて其人格を形成するものである。」(1)

 「吾人が基督の宗教を発揮せんと欲するは、強ちに破壊を壮事とするからではない、其新なる形体を創造建設する所の能力を認むるからである。否吾人の衷心に鬱勃として抑圧すべからざる基督の生命を自覚するからである。生命は能く破壊し又能く建設する。生命の目的は破壊にあらずして建設にある。然れども其建設の目的を達せんとするには、勢ひ破壊せずるを得ない。」(2)

 「吾人は基督の宗教を標榜して天下に宣伝し、具眼達識の人々をして基督教の遵奉すべき悟らしめ、又科学的頭脳を有する青年学生として、単刀直入基督教の奥義を実験せしまんと欲して身の不肖る遑ない。故に勢い基督の意識に合せざるものは、遠慮なく之を排撃せざるを得ないから、吾人を蛇蝎視する人あらんは当初からの覚悟である。吾人は基督の意識を以てい基督教の神髄と思ふ。」(3)

 「欧米の基督教は大は即ち大ではあるが、基督の宗教に照らして考ふれば、純潔無垢の宗教とは謂はれない。」(4) 

 「古代の基督教がユダヤ教の誤謬弊習を脱却するに、幾許の労力を費したるかは勝て言ふべからず、又其ギリシャ思想に接して、其豊富を加へたことは甚だ多かつたならども、其の弊習を受けたことの少くなかつたのは、史上昭々として蔽ふべからざる事実である。基督教は三位一体てふ教義論の為に其生命を傷害せられ、当時一神教を代表せる回教の英鋒を支ふることすら出来なかつた。」(4)

 「基督教の本義は教理信条にあらずして基督の生命である。故に其生長するに当つてや、当時の旧慣弊習を脱却し、又其形骸の老朽するに当つてや、更生復活して赤子となり新人となる。」(5)

 「古人曰く故を温ねて新を知ると、宜なるかな近世の基督教亦一大革新をなさんとするに当つて基督の帰れとの声、甚だ喧しき所以はまた時の徴候とや云ふべき。」(6)

 「吾人が基督教信ずるのは其真理を信ずるのである。吾人が堅く信仰して広く宣伝すべきは基督彼れ自身の宗教であろう。たとい形骸は変化するも、基督教の本義即ち基督の宗教は万古を通じて変化することはない。之を発揮し之を標準として、新来の基督教を判別しないならば、恐くは外国宗教の奴隷となるの憂があらう。……基督教の本義を明にせんと欲せば、先づ基督彼れ自身に親炙して、其意識の程を窺はねばならない。基督は基督教の源泉である。」(7)

 「此偉大なる宗教的意識は独りナザレの耶蘇に偶発したのでなく遠く史的関係を有するが故に、其意識の深さ高さ長さ広さを識らんと欲せば、基督自らが汲み給ひし源泉に遡つて、之を探究するは自然の順序であろう。……其預言者の書と詩篇」(8)

 「吾人は宗教界には常に二種の系統あるを認むる。」(10)

第一章 建国者モーゼ
 「モーゼの胸底に示現したるエホバの神」(12)

第二章 預言者アモス
 「憂国と敬神」(19)
 「偉大なる宗教思想が預言者アモスの胸中に油然として発し来つた」(20)

第三章 預言者ホゼヤ
 「神は人心を通じて顕現し給ふかな。」(27)
 「彼れが主張した神民父子の関係は物質的に非ずして道義的である。」(28)
 「自然的、物質的関係にあらずして、実に道義的父子の関係」「契約的」(29)
 「倫理的」(35)
 「イスラエルの宗教の発展」(37)

第四章 預言者イザヤ
 「イザヤの衷心に映じたる則ち至聖至潔の神である、公義正直の神である。……西哲カントの善なる意志は則ちイスラエルの聖者エホバの神の声である。……良心」(46)
 「エホバ教はイザヤに由て国民の精髄となつた。民族の血液となつた。……国民の血液となつた正義は則ち最後の勝利者である。」(51)

第五章 預言者エレミヤ
 「彼れはユダヤ民族の国家滅亡の時機に際し、エホバ教の為に一大活路を見出し、基督教の準備をなした。故にユダヤ国は滅亡したけれども、エホバ教はいよいよ其根拠堅うし一大進化の盛運を得たのである。」(52)

 「誅罰はエホバの神の終局の目的にあらずして罪人を善良にせんが為の方便に外ならず。故に神の恩恵は神の審判の根本的動機にして、審判は恩恵を蔽塞することをなし能はぬのである。」(59)

 「彼れの宗教と道徳とは人心の根底に存する」「新に精神的見地を開拓したのである」「新らしき契約」(62)
 「神を悦ぶ新しき情念と神の聖旨を行ふ新しき意志との発生」(63)

第六章 倫理的エホバ教の原理
 「彼れの倫理的宗教意識は常に其愛国心を超絶したるを以て、イスラエルのエホ教は隣国の宗教と運命を同うするの不幸を免れた。宗教が民族固有の性格を有して居る間は、民族と偕に興廃を同うせざるを得ない運命を有する。譬へば日本の神道の如き、日本民族固有の宗教からこの民族と運命を同うするのは、自然の勢いであろう。日本民族が勢大を極むれば伊勢の大廟は独り日本民族の帰依する所にあらずして、又帝国隷属の民族にも崇敬せられるべきであろう。然れども若し此民族が衰亡するの悲運に陥ることもあらんには、神道の神々も忘却せられるの不幸を免れないであろう。」(66)

 「宗教をして此悲運を免かれしむるは他にあらず、唯倫理的思想を鼓吹するの一事あるばかりと思われる。……民族を超越すと主張した倫理的観念をエホバ教の実質中に見出したからである。然しながらこの倫理的世界主義の宗教は其の基礎を個人の深遠なる宗教的意識に据えるでなくば、到底天下万民の宗教となる資格はない。イスラエルのエホバ教は本来国家的宗教なりしが、一転して世界主義の実質を発揮してより国家的宗教の厄運を免かれ、再転してエレミヤの個人的宗教の実質を発揮してより、基督教の出立点となるを得た。」        (67)

 「彼は其内心の光明に照され、其の本心の義とする所に新なる根拠を見出し、断々乎として継承的信条を排斥して止まなかつた。彼れは継承的教権を看破して其内心の良智を尊重した。……継承的信条の神と彼れの本心の神とは大々的酷烈の衝突をなして」(79)

 「内心の声」「心の義神」「義人の災難と悪人の幸福によつて、旧信条は其権威を失ふた。」「内心の神との交り、神秘の歓楽を得るの唯心主義」(80)
 「内心の神殿」(81)
 「義人の個人的宗教が利己的にあらずして、人類済度の熱情に富めるを識すことが出来やう。」(83)

 「国家民族的宗教は一転して世界的倫理教の光明を放ち再転して個人的宗教となり、更に大転して人類的宗教となるのである。」(84)

第七章 耶蘇基督
 「此宗教は当初より非凡の人格を待つて発展しつつあつたが、終にナザレの耶蘇なる空前の人格を待つて、実に空前の大発展をなした。」(86)

 「無窮の神は此国の父で、人民は皆其子であれば、実に神の自由国である。人民は神の子であれば、相互に兄弟で真の平等社会である。……各自の法律は、否各自の自由意志であれば、彼等は実に皆神の子たるの境涯に生活するの栄光を有する此の社会が即ち耶蘇の所謂神の国又は天国といふのである。」(88)

 「人格は天国てふ理想の化身」(88)
 「天国の降臨を吹聴し給ふたのではなくして、天国の創設を各自の心底に確立せんが為であつた。」(91)
 「其心裡に遺存する神像は尚神の恩恵に由て本来の面目を放つの霊能あること」   (93)
 「神子の相貌が人類の本体に遺存する」(94)
 「吾人が永久に酌んで永久尽きない宗教の本源は蓋し耶蘇の心情に顕現する神の衷情であろう。」(95)
 「最後の勝利者」「十字架上に於て罪悪の権能を滅絶したのである」(97)
 「彼贖罪料を待つて始めて赦免を与ふるが如きは、断じて基督の義ではない。此の如きは法律的の義であつて」(98)

 「神人父子有親の理を人格の上に実現して、人々相愛の真義を天下に発揚し、以て永久に地上の聖なる社会を形ることが、即ち基督の人格に現存する所の宗教である。」「贖罪を超越する真個の義」(99)

第八章 使徒保羅
 「保羅はユダヤの神学校に入つて、知識を研磨したるものなれば、彼れの思考はラビ的なるは免かるべからざることであるから、吾人は彼れが神学論其ものを以て基督教と思惟してはなるまい。」                                  (101)
 「故に彼れの基督は天人であり、又霊人であり、思想の人であり、過去と現在と未来との三世を貫き有したる人でなければならぬ。保羅は嘗て耶蘇を神と称したことはない。」(104)

 「彼れが基督を以て過去現在未来の三世を貫く天的の霊人としたことは、則ちラビ神学の夙に考究したる天人論と彷彿して居るもの、吾人は一種の神話として之を見るも差支ないと思ふ。其所謂基督教の真理といふべきは耶蘇の人性には神的の分子があつて、彼れをして能く罪悪に勝たしめ、長く人類の霊的首長たる資格あらしめたるの事実其ものであると思ふ。」(105)

 「基督が罪人の身代となつて、罪人の罪悪を贖ふといふの論究はラビ神学の混入に帰すべしと思はれる。」(109)
 「十字架上の基督に於て神の恩恵を観すること」「彼れの信仰は此教義を承認し、又は彼儀式を執行することではない、基督其ものと一心同体となる心意の状態をいふのだ。」(110)

 「基督の衷情に結合する」「基督に合体し同化して其聖なる人格を実現せしむる者は、信仰に由つて生くべし」(111)
 「情意一致の人格」「分与」(114)
 「基督教徒は基督と合体し、天父と合体して居るものなれば」(115)

 「人類教育の大経綸」「則ち完全なる基督の人格が独り保羅の如き一二の人格に完成せられるばかりでなく、終に全き人類に完成せられたるに至る。是を此れ天国の地上に完成せられたといふのである。保羅が人類大観の大要は此の如しと思はれる。彼れが人類大化の時代と基督再来又肉体の復活とを結び付けたる所は、則ちユダヤ思想の基督教の真理に随従し来つて、永く基督教の真理其ものと誤認せられたるもの、吾人之を看破し去るは、寧ろ保羅の本意を得たるものだろうと思ふ。」(117)

第九章 オーゴスチン
第十章 オーゴスチンの宗教的実験

 「宗教の力は人格の内容となりて始めて至大の活動をなすものである。単に哲学者の問題となりては誠に乾燥にして人生に力なきに至る。例へばかの三位一体説の如きも当初は如何ばかり人を慰め、人を高尚にしたか分らぬけれども、一旦之が教条となり単に神学哲学上の問題となるに至りては最早既に生命を失ひ却て弊害を残した。」(130)

 「基督によりて現はれたる方面の神」「人的神」「人格の神」(132)
 「神の人情は基督に於て最も明に示されたのである。去ればこそ彼は基督を以て神の化身也、即ち神也と叫んだのである。」(133)
 「宗教改革者等は神の恩恵を教会に結び付くる必要なきを看破し、唯吾人の信仰とのみ結付たのである。」(138)

 「其他教理に関する議論に至りては吾人の腑に落ちぬものも少なくない。或は教会の信条を弁護せんがために理性を無視し、」(139)

 「彼はプラトーの見識を現すにパウロの熱誠を以てした。プラトーとパウロとはオーゴスチンに於て調和せられたと云て可い。」(139)

第十一章 マルチンルーテルの基督教
 「彼れは基督に於て人と神との親密なる関係を見出した。」「此の神の衷情」(146)
 「神の真実は唯人なる耶蘇の中に見出される、」(147)

 「基督に神人両性があったことは彼も認知して居つたけれども、当時の神学者のやうに哲学的に形而上論の境界に入り込んで、高談横議するを好まなかつた。……彼は宗教的人格の原型が完全にも基督の人格に於て実現せられたるを確めたので、基督は即ち新ヒウーマニチーの長兄であるといふた。」(148)

 「信仰は新実験である、基督の中に現存する内容を実験せしむるもの、過去千年前に顕現した史上の事実を現実に実験せしむるもの、」「信仰は情感である、基督の感激し給ふたものを感得するのは信仰である」「信仰は同化である」「信仰は活発々地の歓喜心である」(152)

 「基督は人に新なる善行を教へ給はない、人を善ならしめたもふ。其貴ぶ所は新行にあらずして新人である」「善行の動機を作る」(153)

 「信条と弊習とは固より彼れが一代にして排除すべきものではない、しかも後世に遺したる基督教の本義は時期を待つて万事を排除し去るの原理である。吾人はハルナックがルーテルの基督教を論述したる一節を挙げて、いま此論を結ばうと思ふ。」(154)

第十二章 約翰の基督教
 「基督の宗教的意識は高大深遠にして、一人の啓発し得べきものではない。保羅はセミチツク人種の最も勝れたる人傑で、彼れが宗教的実験は独り此人傑の基重すべきに止まらず、又」(156)

 「彼等に対峙して毫も遜色なき人物は誰であるかと尋ねて見れば、……吾人は以上の三傑に両々対峙するに足る人物は、之をヨハネとオリゲンとシュライエルマッヘルとに於て見出すことをうる。」(157)

 「フイローの哲学思想には精通して居つた人」「ロゴスとは理性、道理、言語等の道義を有するので、天地万有は取も直さず此道理の発展に外ならないといふのだ。」「形容を用ゆべからざる実在者」「神は絶対的に非物質的で、純然たる霊である。」(159)

 「しかもロゴスは一夜にして発展を終るべきでない」「道理の作用によつて天地万有は創造せられた。……未発の道理が一転して己発の言語となつた。……一転して人類史上の光明となり、生命となり、……言語文章となり、神聖なる天下国家となつて来るのだ。期満ちた時至りて、ロゴスは更に一転してナザレの耶蘇に於て人格となり、人生を救済し、人生を聖別し、……人格の道理は長く浮世に留ること能はずして上天に去り逝きたれども、ロゴスは所謂聖霊となつて聖別せられたる社会の精神となり人類霊化の大業を行ふこととなつた。……ロゴス発展の最終の幕が開かれたのである、是れ即ち万有の最末である。此霊化の時代」(160)

 「旧約は新約の準備、新約は旧約の完成」(161)
 「基督教と異教との関係も亦旧約と新約とのそれのやうで、ヨハネは毫も異教を邪教視して居らぬ。……ロゴスの光が異教人の上に照りつつあること」(161f.)

 「同じく人類の光明であるロゴスが耶蘇に於て人格となつたものなれば、基教と異教とがそう矛盾隔絶して居るものではない。」(162)
 「神は耶蘇の父である、此関係は因果又は本末のそれをいふたのではない、哲理的にあらずして道理的である、倫理的にあらずして宗教的である、是れ乍然彼れ一人の独占ではない、神は凡ての彼を信ずる人の父である。」(163)

 「仁齋の元気論」「光明と生命」(164)
 「神の愛は反響の意にあらず、本来の愛で、凡ての愛の原動力である。此愛の力に摂取せられ、この愛なる神の懐に安んずる、是れ即ち基督教の本義でなかろうか。」(165)
 「ヨハネの基督はポウロの基督よりも、より多く人的である。……ヨハネの基督は半神半人の怪物ではない、純然たる人である、世界人類の純全なる標本である。」(166f.)

 「彼の教徒は悉くロゴス化してしまうのである。猶ロゴスが人間化したるやうに人類はロゴス化して、直接に耶蘇が天父の懐にあるが如く、天父を観するが如く、神を観じ、最も親密なる父子の奥義に入るのである。」(169)

第十三章 オリゲネスの基督教
 「自啓の顕現とは何であるか。ロゴス、即ち是れ。ロゴスは万有の創造者にして万有の原理、天地の主宰にして、人類の教育者である。故にロゴスは万有に遍在し万有の秩序となり、人類を遍照して教会の首領となり給ふ。」(172)

 「人類の教育者たるロゴス」「ロゴス教育法」「ロゴス大経綸の奥義」「レッシングの人類教育論」「ロゴス発展の秩序」(180)

 「神は自覚自識の霊なれば、神の霊なるが如く霊化するものは、則ち其れ丈神化するので、又其れ丈神の自覚自識に入るのである。」(181)

 「蓋しロゴスは万有がに遍在して之を統一し之を指導して神と合一ならしむるからである。」「オリゲネスはロゴスを以て一個の実在者と認定するが、故に、固より、神其ものとは同一視しないのである。」「天父に祈祷すべきであつて、神子に祈祷すべきにあらず」(183)

 「耶蘇が凡ての聖徒の先駆及模範となり給ふたるは、其健全な自由意志とロゴスの声援との二者を保全し給ふたからである。基督の十字架と復活とはオリゲネスが史的事実として受け入れ、救済に大関係あることと認めた所なれども、彼は之を以て唯一の救済とは思はず、彼は或る多数の人々には此史的事実が救済と認められるなれども、或る人々は此十字架上の基督を超越してロゴス其ものの実質を会得し、其愛と光明とを看取して天父に親近し奉るを得というた。今宗教生活の進歩を要言すれば、史上の事実及信条等を信ずるは、其生活の初歩で、之に次ぐは是等有形上の事物を観想することである。……宗教生活の極地、此極地に達すれば、……自から純霊となり、全く神化して永遠限りなく愛を以て神に合致するのである。」(189)

第十四章 シュライエルマッヘルの基督教
 「信条や教理や儀礼の上に宗教を求むるは偽りである。真の宗教は情感の発動其ものであるから、信条や教理や儀礼の宗教は偽りの宗教……信条主義の非宗教的なるは」(198f.)

 「若し其観念に相応する情感が勃興するにあらざれば、爾は未だ宗教をもたないのだ。……宗教は神と人との和合感である。」(200)

 「宗教の分離や宗教の戦争といふは、宗教其ものの分離でもなければ、亦戦争でもない、乃ち信条や教義や儀礼の争論や分離や戦争である。」(202)

第十五章 聖書論
 「亦天啓の一時代又は一地方、或は一民族に限られざるを知るべし。」(203)
 「聖書は如上の宗教的内容を発表したるものなれば、此同じき内容を実験する者にして始めて之を解すべきであろう。」(204)

 「古今の識者は人格の神といはんよりは、寧ろ活ける神といふ方を穏健の思想をなしたと彼れは論じたのである。」「シュライエルマッヘルは固より宇宙と神とを同一視する唯物的凡神論者にあらざれども、宇宙を神の衣裳と心得たる唯心的凡神論者であつたことは彼れ自からが断言した所である。」(209)

 「神其ものに偏在、無窮、全能、全知、至聖、公義、博愛、智恵等の種々の形状が個々別々に存在するにあらずして、人の智情意即ち人心に観ぜしむるといふのであろうと思はれる。神は……公義と博愛と智恵との発する本源其ものである。」(210)

 「神の国は古預言者の予想したるものに卓絶して、先づ人心の根底に建設せられ然かして個人の人格となり、家庭に実現し、国家に実現し、終に人類の完成を期するもの」(213)

 「彼の霊能才力は深く人類の奥底に潜伏する未発の能力にして、基督を待つて始めて発顕したるものと認められたるが故に、其所謂神性は天地人類以外のものにあらずして、既に己に人類の本体たる霊性に外ならないのである、基督の神性は人類固有の霊能なれば、彼れは霊能新人類の首領である。」(213)

第十六章 結論
 「彼れの倫理的神観は之に加ふべきものなしと雖も、其哲学的神観念の方面はヨハネ以来の哲人が深く考究して吾人に遺したるものである。」(223)
 「地球中心説の行はれる時代には」「進化論の行はれなかつた時代には」(223)

 「合理的に之を解説するは基督教が望む所である。そが唯ドコまでも固守して動かすべからざる所は基督に由つて完成せられたる倫理的神観である。此倫理的神観が即ち基督教の特有たる神観である。之れと哲学的神観とを混同して主張するのが、最も厭ふべき弊習である。」(224)

 「そは時代時代の思想に一任してもよかろう。」「具体的活ける真理」「心の肉碑に活躍する所のもの、乃ち神を慈父と叫び人類を同胞視するの霊である。」「人類の良心」(225)

 「モーゼ以来の社会的良知良能である。此基督教団体の霊能は基督以来人類を指導して地上に天国を建設せんと奮闘勇戦しつつある。」(229)

 「従て又民族たり人種たるの自然的団体も神聖にせられて、終に世界人類が霊化せられて、神国の旺盛を見るべきを期する。是れ則ち基督の社会的救済の精神である。」(230)

 「吾人が基督教の本義を認むるものは信条でもなければ、亦祭祀でもない、教会政治でもなければ、亦神学論でもない、さらば何をのであろう。吾人が基督教の本義とするものは他なし、則ち正義公道の霊、博愛慈愛の霊、勇奮猛闘して自然界を征服し、罪悪の権能を破壊する戦勝者の霊である。」(234)

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